大相撲

横綱10大史5 横綱地位となる

2017年8月25日

これまで横綱は上覧相撲を機会にそのときの
強豪力士が土俵入りをする資格であった。
それが幕末から強豪大関の称号と化した。
しかし、横綱の最大の変化は地位化である。
それはいつ、だれから始まったのか。

きっかけは横綱10大史3で述べた明治23年
夏場所、横綱免許の西ノ海に番付上苦肉の策
として横綱と表記したことである。それでは
この後どうなったのか。
明治23年5月_横綱文字初登場番付_西ノ海
<番付に横綱の文字登場>

明治29年春場所西ノ海が引退すると、
3月、小錦が横綱の免許を受けた。小錦も
番付では横綱と表記された。これは西ノ海を
引き継いだ形の習慣であって、横綱は地位
ではなく、端境期といえる。それはその後の
大砲にもいえる。明治34年春場所、小錦が
引退すると4月に大砲が横綱の免許を受けた。
大砲万右エ門
<大砲のパネル写真>

ここまで横綱は入れ代わりで登場してきた。
ところが、明治37年常陸山と2代目梅ヶ谷が
同日横綱として誕生した。そのとき、本当の
意味で初めて横綱に張出が設けられた。先輩
横綱大砲が張出横綱にまわったのだ。これは
まぎれもなく、横綱を地位扱いしたもので
ある。
横綱常陸山
<常陸山のブロマイド>

それを裏付けるように、明治42年2月、東京
角力協会は横綱を最高力士として明文化した。
実は、大砲はこの後引退する明治41年春場所
まで張出横綱のままだった。横綱の実質地位
化は常陸山以降である。横綱は大関の上の
最高の地位となり、それが現代まで脈々と
続くようになったのである。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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