これまで横綱は上覧相撲を機会にそのときの
強豪力士が土俵入りをする資格であった。
それが幕末から強豪大関の称号と化した。
しかし、横綱の最大の変化は地位化である。
それはいつ、だれから始まったのか。
きっかけは横綱10大史3で述べた明治23年
夏場所、横綱免許の西ノ海に番付上苦肉の策
として横綱と表記したことである。それでは
この後どうなったのか。
この後どうなったのか。
明治29年春場所西ノ海が引退すると、
3月、小錦が横綱の免許を受けた。小錦も
番付では横綱と表記された。これは西ノ海を
引き継いだ形の習慣であって、横綱は地位
ではなく、端境期といえる。それはその後の
大砲にもいえる。明治34年春場所、小錦が
引退すると4月に大砲が横綱の免許を受けた。
ここまで横綱は入れ代わりで登場してきた。
ところが、明治37年常陸山と2代目梅ヶ谷が
同日横綱として誕生した。そのとき、本当の
意味で初めて横綱に張出が設けられた。先輩
横綱大砲が張出横綱にまわったのだ。これは
まぎれもなく、横綱を地位扱いしたもので
ある。
それを裏付けるように、明治42年2月、東京
角力協会は横綱を最高力士として明文化した。
実は、大砲はこの後引退する明治41年春場所
まで張出横綱のままだった。横綱の実質地位
化は常陸山以降である。横綱は大関の上の
最高の地位となり、それが現代まで脈々と
続くようになったのである。
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