大相撲

横綱10大史3 横綱番付に登場

2017年8月17日

幕末は江戸幕府の権威が衰退していく時期で
ある。これまでの上覧相撲を機に横綱を免許
されていた横綱の土俵入りが、大関のなか
でも特に強豪大関に与えられる称号へと変遷
していった。

これまで大関は東西に一人ずつだった。江戸
時代、看板大関がいても大関は東西に一人で
あった。それがくずれて張出大関がみられる
ようになったのは明治からである。

横綱が番付に登場、それは明治23年夏場所に
起きた。その前提となる明治23年春場所の
成績からみていこう。

剣山 2敗1分6休  大関 西ノ海 7勝2敗
若湊1勝3敗12休  関脇 一ノ矢1勝3敗1預4休
大鳴門4勝2敗2分1休小結 小錦8勝1休

西ノ海はこの場所久々に大関に復活した。
大関の座を以下の成績ではあったが、大達に
奪われていた。
明治19年春 大関 3勝5分1相手休
明治18年夏 大関 6勝1敗2分
西ノ海嘉治郎 (初代)
<初代西ノ海のパネル写真>

西ノ海は明治23年春場所後の天覧相撲に際し、
横綱の免許を受けることになっていた(実際
は天覧相撲より遅れて受けた)。

この時代、同じ方屋同士は対戦がなかった。
したがって東は東だけで西は西だけで番付
編成が行われていた。小結小錦が8勝1休で
正大関に昇進し、大関西ノ海は張出にまわる
ことになった。しかし、西ノ海が「横綱免許
を受けた自分が張出にまわされるのは屈辱だ」
と憤り、異議を唱えた。困った協会は窮余の
策として、西ノ海の上に横綱と書いた。これ
が横綱を地位化する前提となった。

小さい桃はおいしさが普通でした。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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