大相撲

名門出羽海部屋の推移1

2017年8月15日

名門といえば歴史ある部屋を思い浮かべる。
その中でも出羽海部屋は名門中の名門である。
現在出羽海部屋の幕内力士は御嶽海のみで
ある。御嶽海は有望な力士で大関をねらえる
逸材である。それにしても御嶽海のみという
のは、いささか寂しい状況である。横綱は
三重ノ海を最後にでていない。
5横綱常陸山【絵葉書
<常陸山のブロマイド>

出羽海の繁栄、それは明治の角聖常陸山に
よってもたらされた。現役の頃から常陸山を
慕って多くの弟子が集まっていた。常陸山が
大正3年引退すると、師匠出羽ノ海(元常陸
山虎吉)より名跡をゆずられ、本格的に弟子
の育成に取り組んだ。なお、当時の出羽ノ海
は「ノ」の字があった。弟子は100人を超え
ていた。その中から横綱大錦、横綱栃木山、
大関(後横綱)常ノ花が誕生した。
栃木山
<栃木山のブロマイド>

元常陸山の出羽ノ海は大正11年、思いがけず
46歳で亡くなられた。常陸山の後部屋を継い
だのは大阪相撲からきた元両国(前名国岩)
であった。だが、出羽海(ノの字はなくなる)
の勢いは止まらず、昭和6年夏場所は大関
大ノ里、関脇天竜をはじめ、番付の方屋を
埋め尽くした。こんなことは今後もないと
思われる。昭和7年から系統別総あたりに
なったが、昭和15年に再び東西制に戻って
いる。その要因は再び方屋をほぼ出羽海の
力士で埋め尽くされたからだ。

なお、元両国(前名国岩)の出羽海のとき
分家独立を許さず、という不文律が生まれた。
これがやがてお家騒動の原因になる。戦前、
出羽海部屋は横綱武蔵山、安芸ノ海を誕生
させている。
千代
<千代の山のブロマイド>

戦後は期待のホープ千代の山が頭角をあらわ
してきた。期待通り横綱にまで昇進した。
千代の山が横綱に昇進した昭和26年秋場所は、
出羽海部屋の幕内力士は10人いる。昭和34年
一月場所千代の山が引退した後は、しばらく
横綱は誕生しなかった。昭和30年代からは
分家独立を奨励してきたニ所ノ関の系統が
躍進してきて、出羽海はおされてくるように
なった。

大雨の日でした。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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