大相撲

横綱10大史2 制度の継続

2017年8月12日

江戸時代、横綱が免許された力士は以下で
ある。谷風・小野川から阿武松まで約38年
3ヶ月という異例とも思える長期期間がある。
人生でいえば半分以上を折り返している長さ
である。ほかは長くても稲妻から不知火(諾)
までの約10年2ヶ月、秀の山から雲竜までの
約16年間である。谷風・小野川から阿武松
までの長期横綱免許空白は何を意味している
のか。

谷風  1789年(寛政元年)11月
小野川 1789年(寛政元年)11月

阿武松 1828年(文政11年)2月
稲妻 1830年(文政13年)9月
不知火(諾)1840年(天保11年)11月
秀の山 1845年(弘化2年)9月
雲竜 1861年(文久元年)9月
不知火(光)1863年(文久3年)10月
陣幕 1867年(慶応3年)
1月五条家10月吉田司家
本
<新田一郎著「相撲の歴史」
(山川出版社刊)

これについて新たな考えを示したのが、新田
一郎氏である。新田氏の著書「相撲の歴史」
(山川出版社刊)を平成6年に目にしたとき、
筆者は衝撃を受けた。新田氏は「相撲の歴史」
でこう著している。

谷風・小野川に横綱免許があたえられてから、
三〇年以上にわたって、吉田司家は横綱を
免許していない。この間には、強豪雷電為右
衛門の活躍期間がふくまれており、しばしば
「史上最強力士」とまで称される雷電が、
なぜ、横綱を免許されなかったのか、という
問題は、相撲史マニアのかっこうの問題と
なりつづけている。

とした上で5つの理由をあげ検証している。
講談ネタや根拠・整合性なし、論拠なしは
退けられている。ただ、横綱は上覧相撲に
際して免許されるのに、雷電はそうした機会
にめぐまれなかった。という説に対し、谷風
死去、小野川引退で横綱力士不在となった
後の享和二(一八〇二)年に上覧相撲があり、
雷電も出場している、として退けている。
大関・雷電
<雷電>

その上で、こう述べている。

ところで、これらの説はいずれも、「横綱
という制度がありながら、それにふさわしい
雷電がなぜ免許されなかったのか」という
問題設定に立って展開されている。だが
じつは、第一に問題とされなければならない
のは、そもそも「横綱」は、谷風・小野川の
免許の時点で、恒久的な制度として構想され
ていたのか、という点なのである。

要するに横綱の土俵入りは、谷風、小野川
限りのものであって、後世に制度として継続
させようという考えはなかった、というので
ある。

それでは、なぜ横綱を復活し、後世まで続く
制度としたのか。それは吉田司家と相撲の
家元五条家の争いにある。横綱の土俵入りは
吉田司家のアイディアだが、五条家が独自に
横綱の免許を交付したのである。1823(文政
6)年、五条家が柏戸利助と玉垣額之に横綱
の免許を交付したのである。五条家に対する
対抗措置で、吉田司家が阿武松に横綱を免許
したわけである。こうして横綱は制度化され
ていったわけである。なお、今日吉田司家の
免許を受けた力士のみを横綱と制定している。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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