大相撲

知られざる?横綱の土俵入り

2017年2月17日

日本出身の横綱稀勢の里の誕生は、ブーム
ともいえる大きな反響をおよぼしている。
稀勢の里はこれまで3度土俵入りを行って
いる。明治神宮、トーナメント大会、福祉
大相撲である。稀勢の里の横綱の土俵入り
の型は雲竜型と紹介するメディアがあった。
せり上がるとき、右手を伸ばし左手を体に
そえる形の土俵入りである。

一方白鵬、日馬富士の土俵入りはせり上がる
とき、両手を広げる型である。こちらは不知
火型と呼ばれている。この名称を相撲ファン
のなかでも、信じて疑わない方もいると思う
が、ことはそう簡単ではない。どういうこと
か。
太刀山
<太刀山のパネル>
 
まず、雲竜、不知火(光)がどんな土俵入り
をしたか、わかっていない。わかってないが、
非常に美しかったと伝えられてきた。それな
のになぜ、現在雲竜型・不知火型がまかり
通っているのか。それは相撲評論家の彦山
光三氏に原因がある。彼は横綱羽黒山のとき
に不知火型を言い出したことから始まる。

彦山光三氏の根拠は以下である。歌川国貞が
描いた不知火(諾)の錦絵に両手を広げた
姿があることによるものである。しかし、
その絵はせり上がってから両手を広げたとは、
言い切れない。
横綱 二代目梅ヶ谷
<2代目梅ヶ谷のブロマイド>
 
明治の角聖常陸山は土俵中央で2度拍手を
した後、両手を広げている。常陸山の土俵
入りはYou Tubeで見ることができる。興味の
ある方はぜひご覧いただきたい。

両手を広げる形は大正の大横綱太刀山が行っ
ている。太刀山は「わしは不器用なので、
庄之助に教わった雲龍の型からとった」と
語っている。また木村瀬平が「(2代目)
梅ヶ谷の土俵入りは不知火にのっとったもの
である」という趣旨のことを話している。

さらに、明治2年に撮影された鬼面山、不知
火の写真では、左側の不知火が左手をそえ、
鬼面山が両手を広げている。どうも今日の
雲竜型と不知火型は逆の可能性がある。しかし、
当時の新聞記事に逆の表記もあり、どうも
はっきり言い切れない要素がある。
鬼面山不知火A
<朝日新聞の記事>

せり上がりのとき、左手を体にそえる型は
2代目梅ヶ谷が始めているので梅ヶ谷型、
せり上がるとき両手を広げる型を太刀山型と
いうのが最も適切ではないだろうか。それ
以降どちらかの型しか行われていない。

また、のばした手は攻撃を、体にそえた左手
は守りを表す。だから、太刀山型の土俵入り
は攻撃のみを表している。ということをまこ
としやかに言う方がいる。しかし、実は、
これが言われ出したのは、そんなに古いこと
ではない。

元凶は、元笠置山の秀ノ山にある。彼が戦時
中にある人に聞かれ、言い出したことが始ま
りである。したがって、まったく根拠のない
話である。一言でいえば作り話である。

日本史は改訂が進んでいる。だが相撲史が、
何ら変わらないのは、極めておかしな図式で
ある。

春一番で物置が倒れたことを思い出した。

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よしなに
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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