大相撲

検証!4横綱の時代 2

2016年6月22日

昭和の初期、実質昭和6年3月場所から昭和7年10月場
所まで横綱が不在だった時期がある。この間15場所横綱
の土俵入りは見られなかったわけである。横綱不在にも
関らず、大関玉錦は3連覇しても横綱に昇進できなかった。
適格者がいなければ不在でもかまわない。ここに横綱の
本質をみることができる。

不在最後の年から11場所後の昭和13年春場所4横綱が
誕生した。3場所連続全勝優勝の双葉山が玉錦、武蔵山、
男女ノ川に加わり4横綱になった。なお、昭和7年1月に
おきた春秋園事件による力士の大量離脱によって、昭和
7年から取組は系統別総当たり制に変わっていた。
昭和初期A
昭和13年夏場所は、休場続きの武蔵山と安定感に欠ける
男女ノ川が6勝6敗同士で千秋楽対戦するありさまだった。
武蔵山が勝って唯一の皆勤場所になった。この2場所双葉
山は連続全勝優勝で5場所連続優勝という前人未踏の域
に達していた。

だが、この4横綱時代は2場所しか続かなかった。玉錦が
昭和13年の11月、盲腸を冷え腹だと思い込み、病院に
行くのガ手遅れとなった。このことで盲腸が破れ、腹膜炎
となり、命取りとなった。12月玉錦は帰らぬ人となった。
玉
<玉錦のブロマイド>
 
戦前の昭和で4横綱になったケースがもう一つある。安芸
ノ海・照國が同日横綱で昇進して、双葉山・羽黒山を加え
て実現した。昭和18年春場所から7場所続いた。このとき
取組は東西制に戻っていたため、同じ方屋の安芸ノ海と
照國の対戦はなかった。

最初の昭和18年春場所は双葉山15勝優勝、照國14勝1敗、
羽黒山13勝2敗、安芸ノ海12勝3敗と横綱がすべて12勝以
上という好成績をおさめた。翌場所も安芸ノ海の11勝4敗以
外は12勝以上の成績をあげ、好調ぶりであったが、ここまで
であった。3場所目に安芸ノ海が全休した。ここのあと4横綱
が皆勤したのは1場所であった。
戦前A
おまけに、戦局は抜き差しならない状況になり、両国国技館
は軍部に接収されてしまった。やむなく、協会は後楽園球場
で晴天10日間興行をおこなった。

戦局悪化の昭和20年夏場所は、非公開でおこなわれた。
終戦後の秋場所は東京大空襲で焼け爛れた国技館を応急
処理して開催した。双葉山は晩年で休場が目立つように
なってきた。昭和20年秋場所は、従来の15尺土俵が16尺
に拡大した。これが双葉山引退を決定的にしたといわれて
いる。こうして4横綱時代は終わりを迎えた。
双葉
<双葉山のブロマイド>
 
昭和に入って、休場はだいぶ減少したが、皆勤場所はま
だ半分程度であった。

6月九州は大雨方面は大雨
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  • この記事を書いた人
denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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