昭和の初期、実質昭和6年3月場所から昭和7年10月場
所まで横綱が不在だった時期がある。この間15場所横綱
の土俵入りは見られなかったわけである。横綱不在にも
関らず、大関玉錦は3連覇しても横綱に昇進できなかった。
適格者がいなければ不在でもかまわない。ここに横綱の
本質をみることができる。
不在最後の年から11場所後の昭和13年春場所4横綱が
誕生した。3場所連続全勝優勝の双葉山が玉錦、武蔵山、
男女ノ川に加わり4横綱になった。なお、昭和7年1月に
おきた春秋園事件による力士の大量離脱によって、昭和
7年から取組は系統別総当たり制に変わっていた。

昭和13年夏場所は、休場続きの武蔵山と安定感に欠ける
男女ノ川が6勝6敗同士で千秋楽対戦するありさまだった。
武蔵山が勝って唯一の皆勤場所になった。この2場所双葉
山は連続全勝優勝で5場所連続優勝という前人未踏の域
に達していた。
だが、この4横綱時代は2場所しか続かなかった。玉錦が
昭和13年の11月、盲腸を冷え腹だと思い込み、病院に
行くのガ手遅れとなった。このことで盲腸が破れ、腹膜炎
となり、命取りとなった。12月玉錦は帰らぬ人となった。

<玉錦のブロマイド>
戦前の昭和で4横綱になったケースがもう一つある。安芸
ノ海・照國が同日横綱で昇進して、双葉山・羽黒山を加え
て実現した。昭和18年春場所から7場所続いた。このとき
取組は東西制に戻っていたため、同じ方屋の安芸ノ海と
照國の対戦はなかった。
最初の昭和18年春場所は双葉山15勝優勝、照國14勝1敗、
羽黒山13勝2敗、安芸ノ海12勝3敗と横綱がすべて12勝以
上という好成績をおさめた。翌場所も安芸ノ海の11勝4敗以
外は12勝以上の成績をあげ、好調ぶりであったが、ここまで
であった。3場所目に安芸ノ海が全休した。ここのあと4横綱
が皆勤したのは1場所であった。

おまけに、戦局は抜き差しならない状況になり、両国国技館
は軍部に接収されてしまった。やむなく、協会は後楽園球場
で晴天10日間興行をおこなった。
戦局悪化の昭和20年夏場所は、非公開でおこなわれた。
終戦後の秋場所は東京大空襲で焼け爛れた国技館を応急
処理して開催した。双葉山は晩年で休場が目立つように
なってきた。昭和20年秋場所は、従来の15尺土俵が16尺
に拡大した。これが双葉山引退を決定的にしたといわれて
いる。こうして4横綱時代は終わりを迎えた。

<双葉山のブロマイド>
昭和に入って、休場はだいぶ減少したが、皆勤場所はま
だ半分程度であった。
6月九州は大雨方面は大雨
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