大相撲

二所ノ関の系統5

2014年9月3日

初代若乃花が引退したのは1962(昭和37)年の五月場所で
あった。初代若乃花の最後の優勝が1960(昭和35)年の
九月場所だから9場所優勝がないまま土俵を去ったわけで
ある。本来ならもう少し早く引退したかったところだった。
これは部屋を興すためにために時間が必要だったためで
ある。自宅を取り壊して地鎮祭を行ったのは1961(昭和36)
年8月であった。初代若乃花の二子山部屋は二所ノ関の
分家の花籠(元大ノ海)部屋の分家として誕生した。

先日亡くなられた竜虎が「自分も連れて行ってください」
と申し出たが、初代若乃花は「それより一刻も早く強く
なって花籠親方を安心させろ」と話し、移籍は実現しな
かった。
若乃花 枚
<若乃花>
 
次の分家独立は大鵬部屋である。1971昭和46)年五月場所
だから初代若乃花から9年後のことである。二所ノ関
(元佐賀ノ花)部屋はこれまで佐賀ノ花の弟弟子の独立
だったが、初めて直弟子の大鵬が一代年寄として部屋を
創設した。同時に問題のない独立だった。このとき番付の
年寄欄には大鵬改め大鵬と記され、疑問が持たれた。

琴桜は32歳で横綱に昇進したものの、8場所務めて1974
(昭和49)年七月場所を前に引退した。引退後は白玉を
襲名し、白玉部屋を興す予定だった。ここで思いがけない
こと起こる。佐渡ヶ嶽(元琴錦)親方が死去したため、
急遽佐渡ヶ嶽部屋を継ぐことになった。これも運命としか
いいようがない。

しかし、佐渡ヶ嶽(元琴錦)以上に波乱を呼んだのが
1975(昭和50)年3月のニ所ノ関(元佐賀ノ花)の死去
だった。

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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