大相撲

二所ノ関の系統4

2014年8月29日

中村部屋のルーツは大阪相撲で1927(昭和2)年の東西
合併とともに東京に加わった。系統別総当たりのとき、
全部屋と対戦していたが、1938(昭和13)年に二所一門に
加わった。1943(昭和18)年楯甲新蔵は部屋を引き継いだ
ものの、最後は閉鎖によって1962(昭和37)年力士は二所
ノ関部屋に移籍した。その中に後、幕内力士になる大文字
がいた。

二所ノ関からの分家独立は玉乃海のとき大きなお家騒動と
なった。1961(昭和36)年一月場所を最後に玉乃海は
引退した。当時は花籠部屋に横綱若乃花、関脇若三杉、
幕内に若ノ海、若秩父、若乃国がいて、佐渡ヶ嶽部屋に
大関琴ヶ浜がいた。二所ノ関部屋に大関大鵬、幕内に
海山(大天龍)、玉響(玉乃海の内弟子)がいた。

玉乃海は5月に片男波部屋を興し、内弟子の移籍を二所
ノ関(元大関佐賀ノ花)に申し出た。しかし、二所ノ関の口
から出たのは1年間待ってほしいという返答だった。これは
翌年行われる役員改選をにらんで勢力の分散を避けたい
という二所ノ関の狙いだった。現在は理事10人だが、当時は
取締が4人、理事が11人いた。取締は協会の寄付行為では
5人枠であったが、細則では当分は4人と決められていた。
二所ノ関の狙いは取締を5人に改訂し、自分が取締になる
ことだったが、失敗した。

1962(昭和37)年一月場所後の取締、理事の一覧が以下
である。

取締 理事長 時津風(元横綱双葉山)
取締 常務理事 立浪(元横綱羽黒山)
               高砂(元横綱前田山)
               出羽海(元前頭筆頭出羽の花)
理事 楯山(元関脇幡瀬川)
     二所ノ関(元大関佐賀ノ花)
     秀の山(元関脇笠置山)
     伊勢ヶ濱(元横綱照国)
     花籠(元前頭3枚目大ノ海)
     枝川(元前頭12枚目葦葉山)
     立田川(元横綱鏡里)
     白玉(元前頭10枚目大八洲)
    若松(元前頭3枚目鯱ノ里)
    東関(前頭17枚目天城山)
    春日野(元横綱栃錦)

1年後の1962(昭和37)年5月、片男波(元玉乃海)は
約束の履行を二所ノ関に迫ると、十両の玉嵐、新川(前名
玉響)と幕下の玉乃島、玉兜は2年待ってくれという。
二所ノ関の約束はあてにならないとみて、片男波は強引に
内弟子19名を五月場所の前に移籍させてしまった。
玉乃海
<玉乃海のブロマイド>
 
これに対し二所ノ関は上位4名と未成年以外の力士の廃業
届けを協会に出すという強行手段に出た。先代の二所ノ関
だった玉の海(現役は玉ノ海で放送の解説者名は玉の海)
氏が仲介にはいり、片男波の内弟子は五月場所後に片男波
が二所ノ関に移籍料を払って移籍することになった。ただ
関取だった玉嵐の移籍は約1年半後になり、新川は移籍前
に廃業したため、片男波の内弟子でありながら、二所ノ関
部屋所属のままで力士人生を終えた。

しかし、廃業届けを出してしまった9名に関しては受理
した協会を巻き込んだ問題となった。結局廃業届けを
だされた力士は10枚降格と場所中の不出場は黒星扱いと
なった。また、両親方は場所中は謹慎処分となった。

玉の海氏は一門の大部屋の後継者になった者に権力が
集中する最高幹部の独裁に問題があり、協会の体質が
諸悪の根源があると指摘した。

しかし、二所ノ関の騒動は元佐賀ノ花の死後本人の
予想もしない形で露呈した。

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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