大相撲

二所ノ関の系統3

2014年8月24日

玉ノ海の二所ノ関が部屋を佐賀ノ花に譲った1951(昭和26)
年5月の夏場所番付では幕内に佐賀ノ花、若ノ花、琴ヶ浜、
琴錦、大ノ海、十勝岩、神若(後の芳ノ里)が名を連ねて
いた。神風は1950(昭和25)年夏場所番付に不満をもって
28歳の若さで引退してしまった。力道山は秋場所を前に
関脇の地位にいながら突然自ら髷を切り、廃業してしまった。
佐賀ノ花 勝巳【絵葉
<佐賀ノ花の絵葉書>
 
1952(昭和27)年夏場所大ノ海が引退すると若ノ花ら数名の
弟子を連れて独立した。1年間は高砂の借株年寄芝田山で
あったが、このあと正式に花籠となる。当時相撲部屋は両国
という常識に反して阿佐ヶ谷に設立した。戦時中二所ノ関
部屋が焼失して高円寺のお寺に住み込んでいたとき、日大
相撲部の監督と懇意になった。その縁で現役時代から日大
相撲部に稽古をつけたりした。後に輪島が花籠部屋に入門
するのも花籠部屋と日大相撲部が極めて近く深い関係だった
ことが理由の1つであった。

1953(昭和28)年5月十勝岩が大龍を連れて湊部屋を興
した。しかし、1965(昭和40)年部屋別総当たり制が
決定するとあっさり二所ノ関部屋に合併した。

玉錦が亡くなったとき、序ノ口だった琴錦が1955(昭和
30)年夏場所で引退した。佐渡ヶ嶽部屋を創設したものの
本家二所ノ関(元大関佐賀ノ花)が琴ヶ浜を手放さない。
ほかに二所ノ関の幕内力士は玉ノ海(後の玉乃海)と
大天竜しかいなく、看板力士の琴ヶ浜を失いたくなかった。
琴ヶ浜が移籍できたのはなんと3年以上たった1958(昭和
33)年の十一月場所だった。琴ヶ浜はすでに大関になっていた。
佐渡ヶ嶽琴錦・琴ヶ濱
<佐渡ヶ嶽(元小結琴錦)>
 
二所ノ関(元大関佐賀ノ花)と分家独立は混迷をさらに
深めていく。
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denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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