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二所ノ関の系統3

玉ノ海の二所ノ関が部屋を佐賀ノ花に譲った1951(昭和26)
年5月の夏場所番付では幕内に佐賀ノ花、若ノ花、琴ヶ浜、
琴錦、大ノ海、十勝岩、神若(後の芳ノ里)が名を連ねて
いた。神風は1950(昭和25)年夏場所番付に不満をもって
28歳の若さで引退してしまった。力道山は秋場所を前に
関脇の地位にいながら突然自ら髷を切り、廃業してしまった。
佐賀ノ花 勝巳【絵葉
<佐賀ノ花の絵葉書>
 
1952(昭和27)年夏場所大ノ海が引退すると若ノ花ら数名の
弟子を連れて独立した。1年間は高砂の借株年寄芝田山で
あったが、このあと正式に花籠となる。当時相撲部屋は両国
という常識に反して阿佐ヶ谷に設立した。戦時中二所ノ関
部屋が焼失して高円寺のお寺に住み込んでいたとき、日大
相撲部の監督と懇意になった。その縁で現役時代から日大
相撲部に稽古をつけたりした。後に輪島が花籠部屋に入門
するのも花籠部屋と日大相撲部が極めて近く深い関係だった
ことが理由の1つであった。
1953(昭和28)年5月十勝岩が大龍を連れて湊部屋を興
した。しかし、1965(昭和40)年部屋別総当たり制が
決定するとあっさり二所ノ関部屋に合併した。
玉錦が亡くなったとき、序ノ口だった琴錦が1955(昭和
30)年夏場所で引退した。佐渡ヶ嶽部屋を創設したものの
本家二所ノ関(元大関佐賀ノ花)が琴ヶ浜を手放さない。
ほかに二所ノ関の幕内力士は玉ノ海(後の玉乃海)と
大天竜しかいなく、看板力士の琴ヶ浜を失いたくなかった。
琴ヶ浜が移籍できたのはなんと3年以上たった1958(昭和
33)年の十一月場所だった。琴ヶ浜はすでに大関になっていた。
佐渡ヶ嶽琴錦・琴ヶ濱
<佐渡ヶ嶽(元小結琴錦)>
 
二所ノ関(元大関佐賀ノ花)と分家独立は混迷をさらに
深めていく。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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