元横綱の協会退職はショッキングなことである。貴乃花、白鵬と目
の当たりにしただけになおさらである。横綱を体験した者にしかわ
のらないことを弟子や新横綱に伝えられる。これまで途中退職した
横綱はどれだけいるのか。実質横綱が地位化した常陸山以降の東京
横綱を調べてみた。
第1号は太刀山である。大正7年春場所後引退し、東関を襲名した。
大正8年5月29日、回向院の協会仮事務所で検査役(現審判)の選
挙が実施された。投票は全年寄、十両以上の力士・行司で行われた。
元太刀山の東関は出身部屋の友綱、木村庄之助が票まとめに動いて
くれた。東関は元常陸山の出羽海にまで頼みこんだ。開票の結果は
次であった。

井筒(元2代西ノ海) 146票
入間川(元両国=前名国岩)142票
雷 (元2代梅ヶ谷) 126票
二所ノ関(元2代海山)125票
中立(元伊勢ノ濱) 121票
関ノ戸(元逆鉾) 120票
阿武松(元紫雲竜)111票
峰崎(行司木村銀治郎) 107票
伊勢ノ海(元小結柏戸) 107票
花籠(元荒岩) 99票
次点
東関(元太刀山)86票
元太刀山の東関は選挙に敗れた。現役時代の栄光と名声は、相撲界
では思いがけず不人気だった。選挙の翌日失意の元太刀山の東関は、
離職を申し出た。協会は留意したが、元太刀山の東関の意思は固か
った。弟子は3代高砂(2代朝潮)に託した。そのなかから大関太
刀光、太刀ノ海、太刀若らが育っていった。
大錦は年寄になることなく協会を去っている。三河島事件の責任を
取って髷を切った。大正12年春場所前本場所を1月12日に控える3
日前、力士会は3ヶ条の要求が協会に提出された。
・養老金(退職金)の倍額、
・本場所収入の分方を1割から1割5分にする、
・十両入りした力士は幕下以下に落ちても配慮する処置をする

協会は重大な問題だけに場所前の解決は無理と判断した。場所後慎
重に検討する回答を明示した。だが、横綱・大関を除く幕内力士・
十両力士は即時回答を要求した。そして上野の上野軒に立てこもっ
た。協会は幕下以下だけで本場所を開催し、不出場者に破門除名を
通告した。力士会は三河島の日本電解工場に土俵をつくって稽古を
始め、長期戦の様相となった。これが河島事件である。
横綱・大関は参加していなかったが、調停役として横綱大錦は「死
を賭して解決にあたるつもりだ」と語った。そのために相撲界を去
るきっかけになってしまった。その後新聞記者に転身した。
退職ではないが、任期途中で自ら命をたったケースがある。2代目
西ノ海である。引退後は井筒を襲名していた。いきさつはこうだ。
取締を務めたが、2期目の途中に役員改選で東西両陣営から6名ず
つ選出とした談合を破った。井筒系の年寄を増やしたことが反陣営
からの怒りを買った。取締を途中辞任して1931年1月27日に自殺した。
50歳だった。
