昭和58年、時代は北の湖から千代の富士へと
移っていった。ただ、千代の富士は年間最多
勝力士には3回しかなっていない。新横綱で
途中休場したことが今後の千代の富士を暗示
していたのか、1年に1回は休場する傾向が
あった。1年間フル出場したのは昭和57年と
昭和60年の2回しかない。休場はどうしても
年間最多勝にとってマイナスにつながる。
一時期千代の富士にたちふさがったおしん
横綱隆の里、横綱のチャンスがあった南海の
黒豹若嶋津が休場千代の富士に代わって年間
最多勝力士になっている。千代の富士は昭和
58年68勝7敗15休、昭和59年51勝17敗22休で
終わっている。
千代の富士のあとは同時期活躍した北勝海、
旭富士が台頭してきた。北勝海は千代の富士
と同部屋のため、本割で対戦はなかった。
ただ、1度平成元年七月場所、優勝決定戦で
対戦して千代の富士が兄弟子勝ちをしている。
旭富士は好成績をあげながら千代の富士、
北勝海にたちふさがられた。旭富士が横綱を
決めた平成2年七月場所千秋楽、千代の富士
を懇親の力でたおした一番は力がはいった。
平成3年は転換期の始まりであった。五月
場所横綱千代の富士が引退、続いて七月場所
横綱大乃国が引退した。横綱北勝海は3場所
休場、横綱旭富士も2場所休場した。旭富士、
北勝海は翌年引退している。平成3年は大関
霧島が年間最多勝力士となったが、62勝28敗
という年6場所では最低の結果となった。
(この項目続く)
一挙に涼しくなりました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。