五月場所、阿炎が連続幕下優勝を達成した。
三月場所に続き、連続幕下優勝となった。
もともとケガで落ちたわけではなく、ペナル
ティによるものだからレベルが違った。実際、
14番の相撲は危なげなく、阿炎があわてる
ことさえなかった。阿炎は平成29年三月場所
も幕下優勝しているから、今回で3回目の
幕下優勝となった。
幕下連続優勝は過去どのくらいあるのか。
そもそも幕下優勝はいつから始まったのか。
幕内の優勝制度は大正15年から始まった。
十両はこのとき力士によって取る番数がまち
まちだった。6番から10番と幅があった。
これでは優勝制度があったとは考えにくい。
十両が全員一定数取るのが、定着していった
のは昭和2年10月場所からであった。だから
幕下優勝がいつから始まったかは定かでは
ない。
仮に昭和2年10月場所としても戦前幕下で
連続優勝した力士はいない。 戦後、昭和30年
代にもいない。そもそも現在と 制度が違う。
今の制度は昭和42年5月からである。
幕下で連続優勝第1号は輪島であった。2年
連続学生横綱を引き下げ、昭和45年一月場所
幕下付出でデビューした。当時輪島に対する
評価はそれほど高くなかった。体重がなく、
相撲が小さかったからである。ところが輪島
は2場所連続幕下優勝して、無敗のまま十両
入りしてしまった。
輪島を追うように入門したのが東農大出身の
長浜であった。のちの豊山である。昭和45年
三月場所、幕下付出の最初の場所こそ5勝
2敗だった。だがそのあと2場所連続幕下
優勝を達成している。昭和45年九月場所、
十両で対戦した輪島と長浜の一番は大変な
話題を呼んだ。何本かの懸賞がついた。当時
はお客さんの投票で決まるサンケイ新聞社賞
があった。勝負は一日の長があった輪島が
勝利している。
昭和48年九月場所、十一月場所で幕下連続
優勝したのが垂沢である。のちの麒麟児で
ある。序ノ口2場所、序二段9場所、三段目
10場所、幕下15場所、計6年務めて幕下16場
所目が初めての優勝であった。相撲に悩んで
いた時期であったが、この優勝で吹っ切れた。
翌場所も幕下優勝して十両入りを決めた。
このとき優勝していなければ富士桜との名勝
負は生まれなかったかもしれない。
アマチュア横綱、学生横綱のタイトルを獲得
したことから山崎(のちの大翔山)は各部屋
の争奪戦となった。初めは藤島(元貴ノ花)
かと思われたが、引退後の年寄株から立浪
(元安念山=2代目羽黒山)部屋に入門した。
そのため、藤島部屋から狙い撃ちされた。
幕下付出でデビューしたが、すぐに十両とは
いかなかった。幕下7場所目の平成2年一月
場所、幕下優勝した。翌場所も幕下優勝して
十両入りを決めた。さらに新十両でも優勝
した実績をもつ。
尾曽(のちの武双山)、竹内(のちの雅山)
も輪島同様いきなり デビューから2連続
幕下優勝を飾っている。尾曽は平成5年
一月場所・三月場所である。竹内は平成
10年七月場所・九月場所のことである。
松谷は十両入りした3場所後に出場停止2場
所を受けている。これは野球賭博に関与して
いたことが明らかになったが、協会に報告
していなかったためである。平成23年一月
場所の出場後、2場所連続幕下優勝して十両
に復帰している。十両2場所で入幕し、松鳳
山と改めている。
徹底して休場して、奇跡の復活を成し遂げた
力士がいる。栃ノ心である。栃ノ心は平成
25年七月場所5日目、徳勝龍に勝ちながら
右膝前十字靭帯断裂、右膝内側側副靭帯断裂
で大ケガをおって途中休場した。中途半端な
出場はせず、このあと3場所全休した。その
ため地位は幕下の55枚目まで降下した。栃ノ
心はここからミラクルのような4場所連続
優勝で幕内に復帰した。幕下連続優勝はこの
ときのものである。平成14年三月場所、五月
場所のことである。元小結の記録であった。
幕下連続優勝は9人しかいない。ここに竜電
あるいは朝乃山の名前が加わるのだろうか。
飲料水の減り方が早くなりました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。