名門といえば歴史ある部屋を思い浮かべる。
その中でも出羽海部屋は名門中の名門である。
現在出羽海部屋の幕内力士は御嶽海のみで
ある。御嶽海は有望な力士で大関をねらえる
逸材である。それにしても御嶽海のみという
のは、いささか寂しい状況である。横綱は
三重ノ海を最後にでていない。
<常陸山のブロマイド>
出羽海の繁栄、それは明治の角聖常陸山に
よってもたらされた。現役の頃から常陸山を
慕って多くの弟子が集まっていた。常陸山が
大正3年引退すると、師匠出羽ノ海(元常陸
山虎吉)より名跡をゆずられ、本格的に弟子
の育成に取り組んだ。なお、当時の出羽ノ海
は「ノ」の字があった。弟子は100人を超え
ていた。その中から横綱大錦、横綱栃木山、
大関(後横綱)常ノ花が誕生した。
<栃木山のブロマイド>
元常陸山の出羽ノ海は大正11年、思いがけず
46歳で亡くなられた。常陸山の後部屋を継い
だのは大阪相撲からきた元両国(前名国岩)
であった。だが、出羽海(ノの字はなくなる)
の勢いは止まらず、昭和6年夏場所は大関
大ノ里、関脇天竜をはじめ、番付の方屋を
埋め尽くした。こんなことは今後もないと
思われる。昭和7年から系統別総あたりに
なったが、昭和15年に再び東西制に戻って
いる。その要因は再び方屋をほぼ出羽海の
力士で埋め尽くされたからだ。
力士で埋め尽くされたからだ。
なお、元両国(前名国岩)の出羽海のとき
分家独立を許さず、という不文律が生まれた。
これがやがてお家騒動の原因になる。戦前、
出羽海部屋は横綱武蔵山、安芸ノ海を誕生
させている。
戦後は期待のホープ千代の山が頭角をあらわ
してきた。期待通り横綱にまで昇進した。
千代の山が横綱に昇進した昭和26年秋場所は、
出羽海部屋の幕内力士は10人いる。昭和34年
一月場所千代の山が引退した後は、しばらく
横綱は誕生しなかった。昭和30年代からは
分家独立を奨励してきたニ所ノ関の系統が
躍進してきて、出羽海はおされてくるように
なった。
大雨の日でした。
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