五月場所でちょっとした変化があった。それ
は場所のポスターが稀勢の里の土俵入りで
あることだ。これまでは奇をてらったような
ポスターがメインでずっと続いていた。それ
だけに目に付いた。思い起こせば1年前も
稀勢の里のポスターだった。もっとも七月
場所のポスターは中日新聞社と共催のため、
中日新聞社の意向が働いているから別モノで
ある。この変化は一時的なものか、そうで
ないかは今後をみていかないとなんともいえ
ない。
<五月場所の横綱稀勢の里デザインのポスター>
稀勢の里のポスターはもちろん新横綱として
東京初お目見えということである。では初登
場の大阪場所はどうだったかというと、稀勢
の里の稀の字もない。これはポスターの決定
と印刷の日程の関係のためであると考えら
れる。
れる。
大相撲は、PRが長い間なく、ポスターなど
ない時代が続いた。東富士氏はタクシーで
行き先を大相撲の体育館へとつげたら別の
体育館に連れて行かれたという。ポスターが
できたのは昭和42年ごろである。電車や駅
に貼られていた。
に貼られていた。
<H28年五月場所の稀勢の里ポスター>
北の富士、玉の海が新横綱のとき、ポスター
は2人だけだった。休場していた大鵬はポス
ターからはずされていた。大鵬はポスターの
扱いに奮起して北の富士、玉の海をおさえて
31回目の優勝を達成した。
ポスターは看板の横綱が多いが、両国新国技
館で初興行のときには国技館がポスターだっ
た。朝青龍が巡業を休場してモンゴルでサッ
カーをして出場停止に追い込まれたことが
あった。このとき九月場所のポスターは
カーをして出場停止に追い込まれたことが
あった。このとき九月場所のポスターは
朝青龍だったが、急遽白鵬に変えたことが
あった。
今のような相撲人気では、稀勢の里のポスタ
ーを見かけるのは両国駅だけかもしれない。
以前はチケット前売りの前日、整理券配布の
ときポスターが配られていたが、今は整理券
自体が事実上なくなっている。それだけに
稀勢の里のポスターは貴重になるかもしれ
連絡が途絶えた相撲仲間が気になります。
興味深いテーマをこれからもお届けます。
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よしなに
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