1927(昭和2)年東京、大阪の両協会が合併した。春
場所(1月)後、大日本相撲協会は関西で本場所を
2回開催することを決定した。実際開催地をみると広島、
福岡もあり、関西というより西日本といったほうがまだ
正確である。その年の3月大阪市天王寺区上本町6丁目
大軌電鉄停留所の東脇で約120メートル四方の小屋を建て
ておこなわれた。春場所大阪横綱だった宮城山が優勝
しているので人気は高かった。3月14日から始まった
この場所で優勝したのは横綱常ノ花であった。4度目の
優勝であった。
<常ノ花の絵葉書>
次に大阪場所が開催されたのは2年後の1929(昭和4)年
3月であった。大阪市中之島で3月14日より晴天11日間の
興行であった。前年よりラジオ中継が始まり、仕切り制限
時間と仕切り線が設けられた。これまで制限時間がなかっ
たが、幕内10分、十両7分、幕下5分と決定した。今まで
打ち出しが午後9時近くかかっていたのが、5時40分に
短縮された。仕切り線の間隔は60センチであった。なお、
現在は70センチである。この場所は横綱が全休、途中
休場の中、大関豊国が初優勝を遂げた。
時間と仕切り線が設けられた。これまで制限時間がなかっ
たが、幕内10分、十両7分、幕下5分と決定した。今まで
打ち出しが午後9時近くかかっていたのが、5時40分に
短縮された。仕切り線の間隔は60センチであった。なお、
現在は70センチである。この場所は横綱が全休、途中
休場の中、大関豊国が初優勝を遂げた。
<小野川時代の豊国の絵葉書>
翌年の1930(昭和5)年大阪市中之島医大跡で3月14日より、
晴天11日間興行が640メートル四方の仮設小屋で開催された。
この場所大阪朝日、大阪毎日新聞社よりその日の好取組に
銀杯が贈られた。横綱常ノ花が10度目の優勝を達成した。
これが最後の優勝となった。また、勝負検査役(現在の審判)
が四本柱に座っている最後の場所となった。翌場所の夏場所
から土俵下に座る現行スタイルになった。
が四本柱に座っている最後の場所となった。翌場所の夏場所
から土俵下に座る現行スタイルになった。
1931(昭和6)年大阪市中之島玉江橋高等工業学校跡地で
10月9日から晴天11日間興行が730メートル四方の仮設
小屋で開催された。この場所は横綱が不在、玉錦以外の
大関大ノ里・能代潟が不振の中、前頭4枚目の綾桜が優勝
した。これが戦前おこなわれた大阪場所の最後となった。
した。これが戦前おこなわれた大阪場所の最後となった。
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