平成は30年4カ月あった。場所数は181場所である。
その間新十両優勝した力士が下記である。
21人の新十両優勝力士が生まれた。約12%の誕生率
である。6.3場所に1人だから平成は新十両優勝が
生まれやすい時代だった。平成初期に9人、平成10
年代に3人、平成20年代に8人、30年代に1人と
なっている。平成10年代が少ないことがわかる。
2場所連続新十両優勝となったときが3回ある。
若の里-金開山、勢-千代大龍、遠藤-照ノ富士の
ときである。
ちなみに昭和は仮の出発点とした昭和3年から271
場所ある。ただし、昭和3年夏場所から昭和7年
まで東京場所と地方場所をあわせた成績で番付を
編成している。つまり番付編成がおこなわれた場所
数は262場所である。昭和の新十両優勝力士数は17
人。新十両優勝誕生率は6%である。平成に入って
倍なったわけである。
平成は15年までが十両13枚目まで、16年から14枚目
に増えている。これは公傷制度廃止に伴う措置で
あった。当時の理事長は北の湖であった。
実力が伯仲しているなかで、新十両から連続優勝
した力士が久島海、雅山、翔天狼の3人である。
翔天狼はのちに横綱白鵬に勝って金星をあげて
いる。なお、遠藤は14勝1敗という新十両最高成績
タイで十両を1場所で突破している。遠藤の出現が
大相撲冬の時代脱却のきっかけになっている。
新十両優勝力士で横綱まで駆け上がった力士は武蔵
丸と照ノ富士だけである。相変わらずの狭き門で
ある。新十両優勝力士のなかで大関に昇進した力士
は雅山、栃ノ心、御嶽海である。昭和時代より増え
たが、3人とも大関から降格しているのは皮肉で
ある。
なお、久島海、金開山、豊響は通算3回十両優勝
している。久島海の3回目の十両優勝は5回目の
十両落ちであった。新十両優勝から実に9年後で
あった。金開山は2度目の十両落ちと5度目の十両
落ちで十両優勝している。すべて3年以内の期間で
あった。豊響は最初の十両落ちで優勝して1場所で
幕内に戻っている。3回目の十両優勝は5度目の
十両落ちのときである。新十両優勝から10年と1場
所目のことであった。
若の里は4回十両優勝している。若の里は最初の
十両落ちで連続優勝している。4回目の十両優勝は
3度目の十両落ちのときである。新十両優勝から
なんと11年と4場所目のことであった。若の里は
19場所連続関脇・小結在位の記録をもつ実力者で
あった。
九月場所新十両優勝した栃武蔵は令和初であった。
栃武蔵に続く新十両優勝力士は誰になるのか。場所
は刻まれていく。