九月場所、栃武蔵が久々に新十両優勝を達成した。
新十両であるから当然前の場所は幕下である。それが
元幕内もいる十両で優勝するのだから簡単なことでは
ない。新十両優勝はどれくらいあって誰がいるのか。
調査してみた。
はじめにお断りしておきたいのは、十両の優勝制度が
いつ始まったのかは定かでないということである。
昭和2年は、取り組む番数が各力士まちまちである。
例えば昭和2年春場所では6番、8番、9番、10番、
11番と不揃いである。これでは優勝制度があったとは
とうてい思えない。ここでは番数がそろった昭和3年
を仮の出発点として新十両優勝を選出した。なお、
幕内が東西制であっても、十両に東西制はない。昭和
の新十両優勝力士が以下である。
昭和新十両優勝力士は昭和3年以降では17人である。
少数派である。特に昭和33年以降は場所数が増え、
年6場所制になりながら急速に数字を減らし、わずか
4人である。
まず、本名で取っていた力士のその後の四股名を紹介
しよう。
岩平→若葉山
米川→朝潮
尾堀→大錦
なお、成山も本名だが、その後も成山であった。本名
幕内力士第1号であった。序二段、三段目時代に小野
岩を名のっていたことがある。
新十両から連続優勝した脅威の新人が4人いる。和歌
嶋、駿河海、千代ノ山、國登である。千代ノ山はその
後横綱に昇進している。ほかに横綱になった新十両
優勝力士は武蔵山、羽黒山、米川だから昭和では意外
と狭き門である。羽黒山は各段優勝の記録をもつ。
米川は14勝1敗で新十両優勝最高成績であった。
なお、大関までいったのは昭和では琴ヶ濱だけで
ある。
昭和7年春場所、春秋園事件で大量の力士の脱退が
発生した。そのため、幕内、十両に繰り上げが目立っ
た。十両では20人中15人が新十両だった。そのなかで
大浪が新十両優勝した。
十両の枚数は和歌嶋が新十両優勝したときは11枚で
あった。羽黒山が新十両優勝したときは14枚目であっ
た。駿河海のころからは15枚目あった。高錦が新十両
優勝した当時十両は23枚もあった。同様に青ノ里の
ときは24枚であった。昭和42年五月場所、番付削減が
断行された、そのとき十両は18枚目から13枚目に削減
された。
昭和最後の新十両優勝力士秀ノ花は記憶に薄い力士で
ある。翌場所0勝11敗4休で一気に幕下まで降下
した。その後3場所連続全休し、再び十両に戻ること
は、なかった。
平成は31年しかないが新十両優勝は増加した。これに
ついては次回に触れることにする。