かつて新入幕から横綱までの所要場所数番付を発表
した。そこで今回、横綱は新入幕までどれくらいの
所要場所数かかったのか。早速調査してみた。
対象は実質横綱が地位化した常陸山以降の東京横綱と
した。十両以下の実情は、時代によって異なる。と
いう問題はある。例えば十両では1場所の取組数が
まちまちの時期がある。そうかと思えば十数番取った
時期もある。昭和42年以降、幕下1場所通過はなく
なった。あくまで参考としてみていただきたい。前
相撲は通算勝利、連続出場にカウントされないので、
場所数からはずした。その結果が以下である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/06/よこづなA.jpg)
トップは太刀山の5場所である。太刀山は実は幕下
付出なのである。それでもいきなり4勝した。入門は
22歳だったが、出世は早かったわけである。続く横綱
が羽黒山である。新序(1934年夏場所から1960年十一
月場所までの序ノ口と前相撲の中間の階級)で2勝
1敗後は序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両と各段
優勝して6場所で入幕した。輪島は幕下付出で2場所
連続優勝して十両入り。十両4場所で入幕した。当時
は幕内から落ちてくる力士が少なく、輪島が十両優勝
しても幕にあがれなかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/06/横綱太刀.jpg)
栃木山は7場所で入幕した。すべて勝ち越しであっ
た。栃木山は後年横綱になって幕内最高成績を9回
達成したほどで、まさに強者の道を歩んできた。引退
後は春日野として後進の指導にあたっていた。栃錦が
まだ三役のころ、部屋にはほかに鳴門海、大江戸など
がいた。
あるとき関取全員が負けた日があった。春日野は関取
たちを前に「お前たちは弱いんだなあ」とつぶやいた。
春日野がその場を去ると「うちの親方は弱いってこと
に関しちゃ何にもわかっていないんだから、いやに
なっちゃう」と鳴門海がいかにもうんざりした調子で
言うから大爆笑になった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/06/栃木山)絵葉.jpg)
羽黒山、栃木山のように1度も負け越すことなく入幕
した横綱に千代の山、朝潮、曙がいる。太刀山は五分
の場所がある。
常陸山は後に大横綱になるほどだからとんとん拍子に
出世したかというとけしてそうではなかった。それ
どころか巡業中脱走騒ぎを起こしている。身を寄せた
のが名古屋相撲、大阪相撲である。だが、それも
人を介して復帰した。3場所ブランクから幕下付出で
再出発したあと一気にスピード昇進を果たしていく。
幕下2場所、十両1場所で入幕を果たした。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/06/5横綱常陸山【絵葉書.jpg)
デビュー場所序ノ口で負け越した横綱が3人いる。
常ノ花、初代若乃花、白鵬である。そうそうたる横綱
ばかりである。常ノ花・初代若乃花が2勝3敗、白鵬
が3勝4敗でいずれも1点の負け越しであった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/06/191124千秋楽表彰-1249-e1655796556751.jpg)
もっとも場所数がかかったのは北の富士と隆の里の
40場所である。6年半以上かかって入幕したことに
なる。北の富士は十両で3人目の15戦全勝して入幕
した。新入幕で13勝し、翌場所は新小結に昇進した。
21歳から22歳にかけてのことだった。隆の里は同期の
2代目若乃花に遅れてきた力士だった。それでも入幕
したときは22歳と若かった。ワースト記録でも気に
するほどではなかったことになる。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/06/北の富士-e1655796581870.jpg)