大内山が昭和33年一月場所、大関の座を去ってしば
らく、大関は誕生しなかった。この間小結潮錦・時錦
などが活躍していた。そして昭和33年十一月場所、
北葉山が入幕してきた。入幕5場所目には小結、7場
所目には関脇であった。入幕から8場所連続勝ち越し
であった。昭和35年一月場所、大鵬が新入幕で11連勝
したとき、千秋楽に顔があって勝っている。このとき
関脇であった。
北葉山には関脇・小結12場所連続在位という記録が
ある。この記録は大関になってストップした。ただ、
大関直前3場所は8勝-9勝-11勝であった。2年間
の関脇・小結が評価されての大関だった。しぶとく、
最後まで勝負をあきらめない相撲だった。うっちゃり
で勝つこともあった。大関在位30場所、8勝・9勝が
15場所、2ケタ勝利が9場所、全休を含む負け越しが
6場所であった。
その中で最高の場所となったのが、昭和38年七月場所
であった。千秋楽を迎えて北葉山1敗、大関佐田の山
2敗で対戦した。佐田の山が外掛けで北葉山に勝って
優勝決定戦にもち込んだ。これが2人の大関同士に
よる初の優勝決定戦だった。決定戦、北葉山は低く
踏み込んで右前褌左おっつけ、寄り切って初優勝かつ
最後の栄冠に輝いた。
学生横綱のタイトルを引き下げて時津風部屋に入門
してきたのが内田、のちの豊山である。幕下10枚目
付出しでスタートすると4場所目に十両昇進。翌場所
2人目の十両15戦全勝を成し遂げた。入幕7場所で
大関昇進を決めた。直前3場所は12勝-12勝-13勝で
殊勲賞・敢闘賞を3場所連続ダブル受賞した。文句
なしの成績であった。大関は昭和38年三月場所こと
であった。部屋の先輩北葉山はすでに大関だった。
大鵬に対抗するのは豊山ではないかという期待が高ま
った。だが、豊山の相撲は大鵬からみればスキがある
モノだった。豊山は腰を痛め、退嬰的な相撲で結局
大成しなかった。ここ一番で勝てなかったことで優勝
はついに1回もできなかった。
ここまでの1横綱3大関誕生は師匠である元双葉山の
育成手腕であり、功績である。ただ、元双葉山の時津
風のもとではなぜか誰も独立していないのである。
だから時津風部屋には常に十数人の年寄がいた。時津
風部屋からの分家独立は元豊山の時津風の代からで
ある。元鏡里の立田川部屋、元大潮の式秀部屋、元豊
山(前名長浜)の湊部屋、元大豊の荒汐部屋である。
大関正代は元時津海の時津風の代に誕生した。ただ、
正代の大関伝達式は師匠謹慎中のため、立ちあえなか
った。元蒼樹山の枝川が代行するという異例の中で
おこなわれた。正代は目下8場所連続1ケタ勝利中。
そのうち3場所は負け越しという寂しさである。