時津風部屋というと、大関正代、豊山が所属し、5月
に断髪した豊ノ島が年寄井筒として在籍する部屋でも
ある。時津風部屋はいまや名門と呼ばれるまでになっ
た。時津風部屋は、双葉山が立浪(元緑嶋)部屋から
昭和16年双葉山相撲道場として独立したことに始まる。
このとき盟友元鏡岩の粂川が弟子も建物も差し出し、
託した。双葉山引退後時津風部屋となった。そして
この部屋から1横綱4大関が誕生している。
まず、鏡里が昭和26年夏場所大関に昇進した。鏡里は
元鏡岩の粂川の弟子であった。昇進直前の3場所は
9勝-8勝-11勝であった。そのため、昇進はないと
思い、番付編成会議の日(当時は千秋楽の翌日であっ
た)友人を見送りに行っていたほどであった。大関
6場所目に14勝1敗で初優勝した。横綱昇進は11勝-
12勝-14勝優勝で横審に諮問せずに、協会が決め、
もめる結果となった。結局最終的に昇進が決まった。
現代ならありえない。
なお、大正15年の優勝制度以降、昇進直前3場所の
初優勝だけで横綱に昇進した力士は羽黒山、鏡里、
吉葉山、鶴竜、稀勢の里である。横綱昇進直前3場所
優勝なしの横綱昇進もけっこうある。鏡里は堂々たる
太鼓腹でお相撲さんらしかったが、人気はもうひとつ
だった。千代の山、栃錦、若乃花に対戦成績で勝ち
越している。横綱勝率0.693=1場所10.4勝、横綱優勝
率0.143=10場所で1.4回優勝、横綱出場率0.905=1年
で81日出場であった。
大内山は双葉山相撲道場に入門してきた2メートルを
こす超大型力士であった。それにも関わらず、足腰は
柔らかかった。相撲の経験はなかった。大内山が横綱・
大関とフルに対戦して勝ち越したのは、昭和26年春
場所であった。新小結で10勝した。同部屋の鏡里は
すでに大関であった。大関昇進はそれから4年後で
あった。その直前の昭和30年春場所、大内山は横綱
千代の山と優勝を争った。優勝決定戦で敗れ、惜しく
も優勝はならなかったが、13勝2敗で大関昇進を決め
た。大内山最高の場所であった。
大内山はギョロリと目をむくと怖かったが、心根は
やさしかった。そのため、突っ張りは相手をこわさ
ないようにという配慮があった。新大関の場所の千秋
楽、優勝を決めた横綱栃錦と対戦した。栃錦は13勝
1敗。新大関大内山は14日目まで9勝5敗と2ケタ
勝利をかける。立ち上がるや大内山はヤツデのような
大きな手で突っ張る。栃錦の顔面に何発も入る。栃錦
の顔がみるみる紅潮していく。栃錦よく耐えて、一度
は組み止めるも再び離れて、大内山の強烈な突っ張り
が炸裂する。苦戦の栃錦、大内山の首に飛びつき、
あざやかな首投げを決め、激闘に終止符をうった。
優勝が決まった千秋楽とは思えない死闘に観衆も驚愕
した。栃錦の師匠元栃木山の春日野も「優勝が決まっ
ていたのにあきらめずによくやった」と賞賛した。
この勝負は名勝負としてたびたび放送された。大相撲
の記憶に残る一番であった。大内山はこのあと大関在位
7場所で大関の座を明け渡している。
(この項目続く)