大相撲

消えた横綱の相撲部屋2

3人目は鳳である。鳳は元大関鳳凰の宮城野
部屋に入門した。その鳳凰は宮城野馬五郎の
部屋に入門した。宮城野部屋は江戸天保年間
から3代に渡って継がれた。大関鳳凰の師匠
である宮城野馬吾郎が明治22年に亡くなって
部屋は消滅している。鳳凰は元刺扠の錦戸
部屋に移籍している。

<鳳のブロマイド>

鳳凰は明治27年二枚鑑札(現役と親方を兼ね
る制度)で宮城野部屋を再興している。その
元鳳凰の宮城野が亡くなったのは明治40年
だった。鳳は元十両御舟潟の勝ノ浦部屋に
移籍している。

ここで、五所車菊太郎が二枚鑑札となって
宮城野になった。だが、力士としての地位は
三段目まで下がり、大正4年に世話人に転じ
ている。横綱鳳は二枚鑑札となって宮城野
部屋を継承した。

大正9年鳳が引退して、年寄宮城野に専念
した。彼の元から古賀ノ浦、九州錦(くす
にしき)、福ノ里ら幕内が育った。いずれも
平幕で、役力士は育たなかった。協会の役職
では理事を務めたことがある。昭和31年11月、
脳出血のため自宅で亡くなられた。69歳だっ
た。こうして宮城野部屋は消滅した。現在の
宮城野部屋は吉葉山が始めたものである。

<古賀ノ浦のブロマイド>

4人目は2代目西ノ海である。といっても
2代目西ノ海の代ではなく、後継者が続か
なかったケースである。井筒部屋は初代西ノ
海が高砂部屋の分家として創設された。ただ、
当時は本家分家の一門意識は薄かった。現に、
大正時代高砂部屋と井筒部屋の力士の対戦が
組まれている。

<2代目西ノ海のブロマイド>

初代西ノ海の井筒部屋を引き継いだのが2代
目西ノ海であった。先代の死去にともない
一時関ノ戸(元関脇逆鉾=明治)部屋に身を
寄せている。明治42年から2代目西ノ海は
二枚鑑札となって井筒部屋を再興した。

大関駒ヶ嶽は先代の弟子だが、2代目西ノ海
として、井筒親方として多くの弟子を育てた。
横綱3代目西ノ海、大関豊國、関脇錦洋与三
郎、小結宮城山、ほか6人の平幕力士を輩出
した。

<3代目西ノ海のブロマイド>

井筒部屋は先代星甲へと引き継がれていった。
昭和19年、先代星甲の井筒が亡くなられた。
先代鶴ヶ嶺(最高位前頭2枚目)は二枚鑑札
を申し出たが、認められなかった。

井筒部屋の力士は双葉山相撲道場に身を寄せ
ることになった。昭和22年、先代鶴ヶ嶺が
引退後、あらためて井筒部屋を復興した。
このあたりが、井筒部屋が時津風一門にはい
るきっかけになっている。

<後継争いをした星甲のブロマイド>

昭和47年3月、先代鶴ヶ嶺の井筒が亡くなる
と、後継者争いがおきた。候補は陸奥(元前
頭4枚目星甲)と君ヶ浜(元関脇鶴ヶ嶺)で
あった。後継者争いに敗れた君ヶ浜(元関脇
鶴ヶ嶺)は独立して君ヶ浜部屋をおこした。

<後継争いをした鶴ヶ嶺のブロマイド>

一方陸奥(元前頭4枚目星甲)は井筒となっ
たものの、遺族とのごたごたで話がまとまら
なかった。結局、井筒の名称を使わず、陸奥
部屋としてスタートすることになった。井筒
の名称は2年間で終焉を迎えた。井筒の株は
北の富士の手に渡った。こうして意外な形で
井筒部屋としての流れは途絶えた。

(この項目続く)

今回のテーマは大労作でした。              。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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