3人目は鳳である。鳳は元大関鳳凰の宮城野
部屋に入門した。その鳳凰は宮城野馬五郎の
部屋に入門した。宮城野部屋は江戸天保年間
から3代に渡って継がれた。大関鳳凰の師匠
である宮城野馬吾郎が明治22年に亡くなって
部屋は消滅している。鳳凰は元刺扠の錦戸
部屋に移籍している。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/大正式 東京大相撲-☆ 鳳-e1645254185365.jpg)
鳳凰は明治27年二枚鑑札(現役と親方を兼ね
る制度)で宮城野部屋を再興している。その
元鳳凰の宮城野が亡くなったのは明治40年
だった。鳳は元十両御舟潟の勝ノ浦部屋に
移籍している。
ここで、五所車菊太郎が二枚鑑札となって
宮城野になった。だが、力士としての地位は
三段目まで下がり、大正4年に世話人に転じ
ている。横綱鳳は二枚鑑札となって宮城野
部屋を継承した。
大正9年鳳が引退して、年寄宮城野に専念
した。彼の元から古賀ノ浦、九州錦(くす
にしき)、福ノ里ら幕内が育った。いずれも
平幕で、役力士は育たなかった。協会の役職
では理事を務めたことがある。昭和31年11月、
脳出血のため自宅で亡くなられた。69歳だっ
た。こうして宮城野部屋は消滅した。現在の
宮城野部屋は吉葉山が始めたものである。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/古賀ノ浦宮城野部屋.jpg)
4人目は2代目西ノ海である。といっても
2代目西ノ海の代ではなく、後継者が続か
なかったケースである。井筒部屋は初代西ノ
海が高砂部屋の分家として創設された。ただ、
当時は本家分家の一門意識は薄かった。現に、
大正時代高砂部屋と井筒部屋の力士の対戦が
組まれている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/西の海、.jpg)
初代西ノ海の井筒部屋を引き継いだのが2代
目西ノ海であった。先代の死去にともない
一時関ノ戸(元関脇逆鉾=明治)部屋に身を
寄せている。明治42年から2代目西ノ海は
二枚鑑札となって井筒部屋を再興した。
大関駒ヶ嶽は先代の弟子だが、2代目西ノ海
として、井筒親方として多くの弟子を育てた。
横綱3代目西ノ海、大関豊國、関脇錦洋与三
郎、小結宮城山、ほか6人の平幕力士を輩出
した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/西の海.jpg)
井筒部屋は先代星甲へと引き継がれていった。
昭和19年、先代星甲の井筒が亡くなられた。
先代鶴ヶ嶺(最高位前頭2枚目)は二枚鑑札
を申し出たが、認められなかった。
井筒部屋の力士は双葉山相撲道場に身を寄せ
ることになった。昭和22年、先代鶴ヶ嶺が
引退後、あらためて井筒部屋を復興した。
このあたりが、井筒部屋が時津風一門にはい
るきっかけになっている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/星甲.jpg)
昭和47年3月、先代鶴ヶ嶺の井筒が亡くなる
と、後継者争いがおきた。候補は陸奥(元前
頭4枚目星甲)と君ヶ浜(元関脇鶴ヶ嶺)で
あった。後継者争いに敗れた君ヶ浜(元関脇
鶴ヶ嶺)は独立して君ヶ浜部屋をおこした。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/鶴ヶ嶺.jpg)
一方陸奥(元前頭4枚目星甲)は井筒となっ
たものの、遺族とのごたごたで話がまとまら
なかった。結局、井筒の名称を使わず、陸奥
部屋としてスタートすることになった。井筒
の名称は2年間で終焉を迎えた。井筒の株は
北の富士の手に渡った。こうして意外な形で
井筒部屋としての流れは途絶えた。
(この項目続く)
今回のテーマは大労作でした。 。
興味深いテーマをこれからもお届けします。