横綱ともなると継承するにせよ、独立する
にせよ部屋をもって弟子を育てたいと思う
のは当然である。しかし、相撲部屋の栄華
盛衰は常にあり、相撲部屋が消滅すること
さえありえる。ここでは消えた横綱の相撲
部屋として横綱が実質地位化した常陸山以降
の東京横綱をみていく。
雷部屋は初代梅ヶ谷がおこした部屋だった。
弟子として大関大鳴門・剣山、関脇鞍ノ平ら
を育てた。最高の弟子は横綱2代目梅ヶ谷で
ある。東京大角力協会では最高の役職である
取締を長く務めた。2代目梅ヶ谷が大正4年
6月に引退すると、自ら隠居して婿養子に
部屋を譲った。当時は年寄に定年制はなかっ
た。
元2代目梅ヶ谷は雷部屋を継いだものの弟子
には恵まれなかった。部屋は衰退をたどり、
師匠の娘である妻と離婚し、芸者を妻とした
ことがあった。昭和2年9月、脳溢血によっ
て巡業先で亡くなった。49歳だった。こう
して雷部屋は消滅した。数少ない幕内力士の
弟子雷ノ峰は白玉(元玉椿)部屋3場所、
八角(元大鳴門)部屋0場所を経て立浪(元
緑嶋)部屋に所属した。
太刀山は大正7年の引退後友綱(初代海山)
部屋より東関部屋として独立した。大正8年
5月29日、回向院の協会仮事務所で選挙が
実施された。これが東関の運命を大きく変え
ることになった。
投票は全年寄、十両以上の力士・行司で行わ
れた。取締は出羽海(元常陸山)と友綱(元
初代海山)が再選された。問題は検査役(現
審判)だった。元太刀山の東関は出身部屋の
友綱、木村庄之助が票まとめに動くよう働き
かけた。東関は元常陸山の出羽海にまで頼み
こんだ。開票の結果は10人の検査役からはず
れ次点あった。元太刀山の東関は選挙に敗れ
たのである。
現役時代の栄光と名声は、思いがけず不人気
だったのである。選挙の翌日失意の元太刀山
の東関は、離職を申し出た。協会は留意した
が、東関の意思は固かった。弟子は3代高砂
(元2代朝潮)に託されることになった。
こうして東関部屋は消滅した。
(この項目続く)
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興味深いテーマをこれからもお届けします。