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すれ違いの優勝争い1

九月場所優勝した横綱照ノ富士と次点前頭
10枚目妙義龍・前頭11枚目遠藤との直接対決
はついになかった。いうなればすれ違いの
優勝争いだったわけである。それだけに盛り
上がっているようで、どこかしっくりしない
感覚が残ってしまった。こうしたケースは
これが初めてというわけではない。そこで
優勝制度がスタートした大正15年以降すれ
違いの優勝争いを調べてみた。

優勝制度が始まった大正15年は東西制であっ
た。東西対抗の団体戦であった。同じ方屋
同士の対戦はなかった。優勝決定戦はなく、
同成績なら番付上位者が優勝となった。
最初の優勝制度となった大正15年春場所、
優勝者常ノ花、次点常陸岩は同部屋である
だけに同じ方屋のケースにあてはまってしま
った。常陸岩の1敗は平幕の吉野山であった。
この場所玉錦が新入幕している。

<常陸岩のブロマイド>

大正15年夏場所、優勝者大蛇山は関脇常陸岩、
小結福柳と対戦はあるが、大関大ノ里戦は
なかった。次点の錦洋は三役戦がまったく
なかった。大蛇山は平幕の白岩に敗れ、錦洋
は平幕の玉錦に敗れている。昭和6年まで
優勝者、次点者が同部屋を含め、ほとんど
同じ方屋のケースであった。東西制は本当の
意味で優勝争いができる下地とはいえなかっ
た。

<三杉磯のブロマイド>

違う方屋ですれ違いの優勝争いをしたのが
昭和3年春場所であった。千秋楽をむかえ
前頭13枚目の三杉磯は全勝、大関常陸岩は
1敗であった。同成績の場合は番付上位力士
が優勝であった。平幕の三杉磯は千秋楽に
小結玉錦とあてられた。前日から玉錦のもと
には八百長の申し入れがあったようだが、
玉錦は断った。

むかえた千秋楽。玉錦は三杉磯との一番、
負けては八百長と思われるので必死でうっ
ちゃった。大関常陸岩が横綱宮城山を倒し、
優勝を決めた。玉錦は常陸岩の後援筋から
宴会に誘われたが「人のために相撲は取ら
ない」と断ったという。

<玉錦のブロマイド>

現代では勝ち込んだ下位が上位と対戦する
のはあたり前である。だが、当時三杉磯が
小結と組まれたのは謀略とまで三杉磯サイド
に言われた。また、常陸岩に不戦勝がある
ので実質的には三杉磯が上とまで言い出した。
だが、常陸岩の優勝は動かなかった。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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