昭和40年代輪島以降照ノ富士までをみていこ
う。次期横綱は19人。横綱誕生!そのとき
次期横綱の地位大関は10人である。稀勢の里
が横綱になったとき、照ノ富士は大関だった。
このとき二人は優勝決定戦でぶつかっている。
負傷をおして稀勢の里が本割、優勝決定戦を
制して奇跡の優勝をしている。ただ、照ノ
富士の大関は長くは続かなかった。一般的な
傾向として横綱誕生間隔が短いとき次期横綱
は大関である傾向が見られる。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/次期横綱の地位3A.jpg)
白鵬が横綱になった場所、安馬(のちの日馬
富士)は新関脇だった。安馬は11場所連続
関脇・小結を経て大関に昇進している。大関
昇進後日馬富士に改めている。さらに大関
22場所を経過して横綱に昇進した。千代の
富士が横綱にかけあがったとき、次期横綱の
隆の里は小結であった。大関は3場所後、
横綱は2年後であった。千代の富士と隆の里
はやがて相星決戦で優勝を争っていくことに
なる。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/130823-24レセプ_初日前段階-045.jpg)
輪島が横綱になった場所、北の湖はまだ前頭
4枚目であった。この場所から3場所後関脇
で初優勝している。大関を3場所で卒業し、
史上最年少で横綱に昇進した。急成長して
きて怪童と呼ばれていた。北の湖が横綱に
昇進した場所、同世代の2代目若三杉は前頭
3枚目であった。素質・素材はすばらしく、
これからの力士であった。ここから3年4
場所かかって横綱に昇進した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/北の湖-e1628050095525.jpg)
三重ノ海が遅まきながら横綱になったとき、
次期横綱千代の富士は前頭10枚目であった。
しかも3度目の入幕であった。千代の富士は
相撲を変えて急激に強くなった。横綱は2年
後であった。旭富士が横綱になったとき、
次期横綱の曙は新入幕で前頭14枚目であった。
曙は横綱空白期のなか2年半で外国人初の
横綱に昇進した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/akebono-e1628050079634.jpg)
次期横綱が幕下のケースが2例ある。最初は
隆の里横綱になったときの北尾(のちの双
羽黒)である。北尾は1年後に入幕、3年後
に横綱に昇進している。ただし、横綱前も
横綱後も優勝がなく、2場所連続優勝が横綱
の絶対の時代をつくるきっかけとなった。
もう1例が、朝青龍が横綱になったときの
幕下54枚目白鵬である。白鵬は1年後十両
優勝、2年後新関脇、3年1場所後大関に、
4年2場所後横綱になっている。白鵬の急
成長ぶりがうかがえる。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/170723千秋楽パレード-048-e1628050113505.jpg)
驚異的なのが、武蔵丸が横綱になったとき、
次期横綱朝青龍は三段目力士だった。序ノ口
から3場所で入門まもない力士であった。
朝青龍は1年後幕下優勝し、十両昇進を決定
的にしている。1年半後入幕、1年5場所後
新小結、3年1場所後大関、3年4場所後に
横綱に昇進した。このとき武蔵丸は休場がち
で横綱同士の対戦は1度もなかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/090927千秋楽幕内-2340パレード-e1628050145405.jpg)
(この項目終わり)
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