昭和40年代輪島以降照ノ富士までをみていこ
う。次期横綱は19人。横綱誕生!そのとき
次期横綱の地位大関は10人である。稀勢の里
が横綱になったとき、照ノ富士は大関だった。
このとき二人は優勝決定戦でぶつかっている。
負傷をおして稀勢の里が本割、優勝決定戦を
制して奇跡の優勝をしている。ただ、照ノ
富士の大関は長くは続かなかった。一般的な
傾向として横綱誕生間隔が短いとき次期横綱
は大関である傾向が見られる。
白鵬が横綱になった場所、安馬(のちの日馬
富士)は新関脇だった。安馬は11場所連続
関脇・小結を経て大関に昇進している。大関
昇進後日馬富士に改めている。さらに大関
22場所を経過して横綱に昇進した。千代の
富士が横綱にかけあがったとき、次期横綱の
隆の里は小結であった。大関は3場所後、
横綱は2年後であった。千代の富士と隆の里
はやがて相星決戦で優勝を争っていくことに
なる。
輪島が横綱になった場所、北の湖はまだ前頭
4枚目であった。この場所から3場所後関脇
で初優勝している。大関を3場所で卒業し、
史上最年少で横綱に昇進した。急成長して
きて怪童と呼ばれていた。北の湖が横綱に
昇進した場所、同世代の2代目若三杉は前頭
3枚目であった。素質・素材はすばらしく、
これからの力士であった。ここから3年4
場所かかって横綱に昇進した。
三重ノ海が遅まきながら横綱になったとき、
次期横綱千代の富士は前頭10枚目であった。
しかも3度目の入幕であった。千代の富士は
相撲を変えて急激に強くなった。横綱は2年
後であった。旭富士が横綱になったとき、
次期横綱の曙は新入幕で前頭14枚目であった。
曙は横綱空白期のなか2年半で外国人初の
横綱に昇進した。
次期横綱が幕下のケースが2例ある。最初は
隆の里横綱になったときの北尾(のちの双
羽黒)である。北尾は1年後に入幕、3年後
に横綱に昇進している。ただし、横綱前も
横綱後も優勝がなく、2場所連続優勝が横綱
の絶対の時代をつくるきっかけとなった。
もう1例が、朝青龍が横綱になったときの
幕下54枚目白鵬である。白鵬は1年後十両
優勝、2年後新関脇、3年1場所後大関に、
4年2場所後横綱になっている。白鵬の急
成長ぶりがうかがえる。
驚異的なのが、武蔵丸が横綱になったとき、
次期横綱朝青龍は三段目力士だった。序ノ口
から3場所で入門まもない力士であった。
朝青龍は1年後幕下優勝し、十両昇進を決定
的にしている。1年半後入幕、1年5場所後
新小結、3年1場所後大関、3年4場所後に
横綱に昇進した。このとき武蔵丸は休場がち
で横綱同士の対戦は1度もなかった。
(この項目終わり)
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