大相撲

横綱の勝率・優勝率・出場率の総合番付 上

横綱の勝率、優勝率、出場率を合計した総合
番付を作成してみた。あくまで横綱時代の
実績をもとにした数字である。対象は実質
横綱が地位化した常陸山以降の東京横綱と
した。大阪横綱の宮城山は東西合併以降の
成績を採用した。引き分け、預かり、痛み
分け、無勝負は0.5勝0.5敗とした。1勝14
引き分けが勝率10割で、14勝1敗より上では
あまりにも不合理である。優勝制度は大正
15年から正式にスタートしたが、それ以前は
最高成績をカウントした。出場率は休場率の
裏返しだが、不戦敗は出場扱いしなかった。
その結果総合番付は次のようになった。

総合番付トップは栃木山である。栃木山は
3場所連続最高成績のあと引退したので余力
十分で晩年の成績がない点が大きかった。
桜の花が散るごとく、横綱は追い詰められて
辞めてはいけない、が美学だった。また取組
は東西制だった。もっとも大錦、常ノ花とは
同じ出羽海部屋なので、部屋別総あたりでも
対戦することはなかった。また休場の少ない
横綱だったことが大きい。勝率2位、優勝率
7位、出場率2位である。

<栃木山のブロマイド>

次は無敵双葉山である。69連勝は82年以上
経っても、いまだ破れていない空前絶後の
記録になっている。相手が立てばいつでも
立つ立ち合いは超人的である。「1日のうち
10分(当時の仕切り制限時間)だけ集中すれ
ばいいんです」とこともなげに語っている。
腰で相撲を取り、相手と胸を合わせる相撲は
大きさを感じさせた。勝率は3位、優勝率は
栃木山を超え2位、出場率は6位である。

<双葉山(左)と玉錦のブロマイド>

3位は現役中に亡くなられた玉の海である。
腰で相撲を取り、双葉山の域にどこまで近づ
けるか期待されていた。玉の海は、安定性が
抜群で昭和45年九月場所以降は負けにくく
なっていた。現役最後の場所となった昭和
46年九月場所、角界のプリンス貴ノ花相手に
もろざし外掛けで腰をくずされながら、もう
ひとつの腰で残し、貴ノ花の両腕をかかえ、
土俵の外にほうりだしたのである。二枚越し
を見た瞬間であった。これほど惜しまれた
横綱はいなかった。勝率は6位、優勝率は
6位、出場率は1位であった。

<玉の海>

4位は朝青龍である。体力の限界ではなく、
事件で引退しただけに数字を残せたとも言え
る。29歳のときである。優勝直後の引退でも
あった。当時優勝最高記録は大鵬の32回で
あった。モンゴルでは大鵬の記録を破らせ
ないために辞めさせた、といううがった見方
があった。朝青龍はスピードと集中力の相撲
で魅力があった。一人横綱が長く、白鵬が
台頭するまで優勝の独占が続いた。勝率10位、
優勝率1位、出場率10位である。

<朝青龍>

(この項目続く)

真夏日です。
興味深いテーマをこれからもお届けします 。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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