大相撲

受難の地方本場所

2020年8月7日

新型コロナウイルスの影響で集団移動ができ
ない状況下のため、七月場所は東京で開催
された。七月場所はあくまで七月場所のため、
取組表以外に読物がついていた。また千秋楽
の表彰に従来の名古屋場所でしか行われなか
った表彰が名を連ねていた。
愛知県知事賞
名古屋市長杯
奈良県知事賞
CBC賞
東海テレビ放送賞

十一月場所も東京開催である。となると今年
の地方場所は大阪開催のみとなる。その大阪
場所も無観客だから地方の相撲ファンは大相
撲観戦の機会がまったく失われたことになる。

本場所が地方で開催されたのは、大正13年
春場所のことである。これは関東大震災が
前年の9月1日におきたことによるもので
ある。両国国技館は屋根・柱を残し焼失し、
東京は焼け野原であった。やむを得ず、名古
屋開催を決心した。古くても大相撲の長い
歴史から見れば新しいのが、地方本場所で
あった。

<両国国技館の絵葉書>

昭和に入って東西の相撲団体が合併して、
年4場所が始まり、昭和7年まで続いた。
そのうち2場所は地方開催であった。
昭和2年 大阪 京都
昭和3年 名古屋 広島
昭和4年 大阪 名古屋
昭和5年 大阪 福岡
昭和6年 京都 大阪
昭和7年 名古屋 京都

地方本場所の開催は戦後場所数の増加ととも
に増えていった。昭和23年秋から大阪で本場
所が開催されるようになった。昭和26年まで
続いた。昭和28年から現在と同じように3月
に毎年開催されていった。2011年に八百長が
発覚して中止になった以外開催され続けた。

<大阪場所の光景>

九州に本場所誘致を。相撲どころ九州に本場
所を誘致すべく福岡の実業家は熱心に相撲
協会に迫った。経理担当の武蔵川(元出羽ノ
花、後理事長)は経費が力士の給与を含め
6千万かかると反対した。当時はまだ1万円
札が発行されていなく、大卒銀行員の初任給
が1万2700円くらいの時代の話である。これ
に対し、「赤字が出たら面倒をみる」という
地元有力者の発言によって難航していた本場
所が実現することになった。昭和32年のこと
である。通称九州場所は福岡一箇所ではなく、
相撲どころ九州をPRしたたまものであった。

<九州場所の光景>

名古屋本場所開催は翌年の昭和33年から始ま
った。日本相撲協会と中日新聞社の共催で
ある。こうして現在につながる年6場所制が
始まった。

<名古屋場所の光景>

今年は三月場所のみ無観客で行われる年と
なった。相撲協会は来年の三月場所は大阪で
開催を発表した。だが確かな見通しによる
ものではない。すべては新型ココロナウイ
ルスの状況次第である。下手をしたら年6場
所東京開催になる恐れがある。地方場所が
健全に行われる日はまだまだ読めない。

夏は暑いのガあたりまえです、と言ったのは村田蔵六です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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