5代高砂(元横綱朝潮)の下では3つの分家
独立があった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/5代高砂A.jpg)
昭和49年三月場所で引退した前の山(最高位
大関)が、4月に内弟子8人を連れて高田川
部屋を創設した。小結前乃臻、剣晃、鬼雷砲
などを育て上げた。高田川部屋がニ所ノ関系
の元安芸乃島に引き継がれる事情はのちに
触れることにする。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/前の山-1-e1594342879650.jpg)
昭和59年五月場所、高見山(最高位関脇)が
引退し、年寄東関を襲名した。部屋付きの
親方を経て昭和61年2月、分家独立して東関
部屋を創設した。横綱曙、小結高見盛、潮丸
などを育てた。平成21年6月16日、東関は
定年迎え、元潮丸の小野川が東関部屋を継承
した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/131006高見盛引退相撲-818-e1594342901528.jpg)
平成30年一月場所後、東関部屋は新たに葛飾
区に移転した。ところが翌年の令和元年12月
13日東関(元潮丸)が血管肉腫のため、亡く
なってしまった。まだ41歳であった。部屋を
どうするかが決まらぬうちに一月場所が迫っ
ていたため、力士は八角(元北勝海)部屋に
一時預かりとなった。場所後の1月30日、
元高見盛の振分が東関部屋を正式に継承する
ことになった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/180320十日目幕下以下-043-e1594342917604.jpg)
昭和60年三月場所限りで富士櫻が引退し、
年寄中村を襲名した。部屋付きの親方として
指導していたが、6代高砂から「そういう
ことは言わなくていい」と言われたのをきっ
かけに、翌年の昭和61年5月30日中村部屋を
創設した。十両力士を育てるも幕内力士は
およばなかった。定年前に部屋を閉鎖し、
弟子は東関(元潮丸)に託した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/冨士桜-e1594342934763.jpg)
昭和63年10月23日、5代高砂(元横綱朝潮)
が死去。58歳だった。あとを継いだのは元
小結富士錦の尾上であった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/冨士錦-e1594378522940.jpg)
平成8年9月、元佐田の山の境川理事長は
年寄名跡の改革私案を理事会に提出した。
主な趣旨は人材流出の防止から親方株を一定
数協会帰属とし、売買を禁止するというモノ
だった。間垣委員長(元2代若乃花)、高田
川副委員長(元前の山)のもと年寄名跡改革
小委員会は、境川の改革案を圧倒的多数で
拒否した。それは他の親方も同様であった。
高額で購入した親方株が次に譲れなくなる
怖れがある死活問題となり、大反対の嵐と
なった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/07/佐田の山晋松-e1594344166964.jpg)
平成9年5月、境川理事長は改革私案の全面
撤回を表明せざるを得なくなった。それだけ
ではすまなかった。平成10年の理事選挙は
大波乱の展開となった。前回の選挙では次の
一門が2名ずつ理事を選出していた。
高砂一門
陣幕(元北の富士)高砂(元富士錦)
出羽海一門
境川(元佐田の山)北の湖
二所ノ関一門
佐渡ヶ嶽(元琴櫻)二子山(元貴ノ花)
時津風一門
時津風(元大関豊山)枝川(元北葉山)
立浪・伊勢ヶ濱連合
立浪(元安念山)木瀬(元清の盛)
伊勢ヶ濱は現在の伊勢ヶ濱(元旭富士)とは
つながりはない。清瀬川-照國-清國の流れ
であり、消滅した。また八甲山の流れをくむ
高島系も立浪・伊勢ヶ濱連合に加わっていた。
平成10年の理事選挙、立浪(元安念山)は
定年であり、大島(元旭國)が出馬すること
になった。二所ノ関一門はもう一人出せる
票数があるので間垣(元2代若乃花)を選出
した。そこへ一門の意向とは関係なく、年寄
改革反対の急先鋒として高田川(元前の山)
が立候補したのである。
(この項目続く)
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