■錦洋
黒姫山と同様昭和44年七月場所新入幕。19歳
であった。大受、吉王山と同期で期待のホー
プであった。入幕5場所目に技能賞を受賞。
翌場所大鵬から金星を獲得している。昭和
47年4月、井筒部屋の後継者争いで、後継者
になれなかった君ヶ浜(元鶴ヶ嶺昭夫)の
独立にともない同行。糖尿病の影響で、十両
に落ち、本名の川崎で取った。のちに大峩と
改名した。関取生活は幕内27場所、十両23
場所であり、大成しなかった。最高位は前頭
筆頭。最後は幕下で引退(廃業)した。27歳
だった。
■吉王山
昭和44年十一月場所、20歳で入幕した。185
センチ、131キロと恵まれた体格で将来を
期待された。右四つからの寄り、上手投げを
得意とした。三保ヶ関(元増位山父)部屋
所属。吉王山は序ノ口から使用した四股名で
あり、改名歴はなかった。しかし、糖尿病で
期待には応えられなかった。最高位は前頭
2枚目、関取生活は幕内16場所、十両27場所
と十両生活がはるかに長かった。最後は十両
で引退した。まだ26歳であった。
■大受
昭和45年五月場所、20歳で入幕した。入幕
したときは、前場所十両筆頭で14勝1敗の
優勝をしたせいで、いきなり前頭6枚目に
位置した。そこで9勝6敗と見事に勝ち越し、
技能賞を受賞している。押しの技能が認め
られたのである。将来は貴ノ花と時代を築く
のでは、と貴受時代の言葉まで聞かれた。
大受の押しが冴えまくり、手がつけられなか
ったのが、昭和48年七月場所である。13勝
2敗で大関昇進を決めた。史上初の三賞独占
となった。23歳のときである。師匠の高島
(元三根山)はつい「大受にはやましいとこ
ろがない」と言ってしまった。これまでの
大関昇進は胡散臭い相撲があったのだろうか。
しかし、大関になると成績はふるわず、5場
所で関脇に陥落した。十両で1場所途中まで
取って引退した。27歳であった。
■北の湖
入門は13歳。三保ヶ関(元増位山父)部屋
から中学に通っていた(現在は卒業してから
でないと入門できない)。四股名はなんとか
洞爺湖をイメージしたいと師匠は考えていた。
そんな時水上勉の小説が映画化され、その
宣伝ポスターに「湖(うみ)の琴」という
タイトルを目にした。こうして北の湖の四股
名は誕生した。入幕は昭和47年一月場所で、
まだ18歳であった。怪童と呼ばれ、前途洋々
であった。
北の湖が開眼したのは、昭和49年の一月場所
であった。関脇北の湖が当時最強の横綱輪島
に初日勝つと、そのあとも勝ち続け、14勝
1敗で堂々の初優勝を達成してしまった。
場所後大関に昇進した。20歳であった。勢い
は止まらず、大関3場所で横綱昇進を決めた。
21歳であった。北の湖は最初休場の少ない
横綱であった。43場所連続横綱皆勤の記録を
もつ。この間に5連覇、20回優勝している。
攻撃型の相撲は憎らしいほど強いと言われた。
晩年は休場続きで、新国技館にあがるために
無理をしていた。結局新国技館は2日あがり
2連敗して、引退した。一代年寄りを贈られ
て北の湖部屋をおこした。
■大錦
大正の名横綱の名前が復活した。昭和48年
九月場所、20歳で入幕した。入幕した場所が
すごかった。終盤大関貴ノ花、横綱琴櫻に
勝ち、史上2人目の三賞独占となった。気の
早い向きは北の湖・大錦時代が来るとまで
いわしめた。翌場所、小結に昇進した。これ
が唯一の三役で最高位となった。ただし、
本来小結は西前頭4枚目、9勝6敗で3横綱
2大関と対戦した高見山がふさわしかった、
という見方が大勢であった。大錦は西前頭
11枚目、11勝4敗で1横綱2大関の対戦だっ
た。かなり無理があっての小結であった。
その後十両落ちが12回もあって目立つ活躍は
なかった。最後は十両で引退した。34歳で
あった。
(この項目続く)
回転寿司にいってきました。
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