大相撲

20歳以下の新入幕力士3

2020年5月26日

昭和戦後をみていこう。

■千代ノ山
戦後の大相撲の復興は千代ノ山にかかって
いた。その期待にそうように昭和20年秋場所、
19歳で新入幕を果した。新入幕の場所いき
なり10戦全勝した。強烈な存在感を示した。
突っ張りを得意としたが、特に右が強烈だっ
た。大関になったのが23歳、横綱になった
のが、25歳であった。32歳で引退した。

<千代の山のブロマイド>

引退後は出羽海部屋の後継者を目指した。
だが、佐田の山が出羽海(元出羽ノ花)の
市川家に婿入りした。これで出羽海部屋後継
者の道がなくなると、当時分家禁止の不文律
があった出羽海部屋から独立することを決心
した。破門独立であった。千代の山の独立が
なければ、千代の富士、北勝海の両横綱を
抱えての九重(元北の富士)部屋の黄金時代
は、なかったかもしれない。

■安念山
のち羽黒山(2代目)に改名するが、どうも
安念山のほうがしっくりくる。昭和29年夏場
所20歳で新入幕。入幕13場所目には小結で
優勝を達成した。小結7場所、関脇14場所、
金星10個獲得するほどの強豪であった。ただ、
大鵬には歯がたたず、1勝14敗であった。
なかなか大関になれない安念山を解説の
玉の海梅吉氏は「これじゃあ安念山ではなく、
残念山ですなあ」と評した。引退は31歳で
あった。

<安念山のブロマイド>

■若羽黒
昭和30年春場所、20歳で新入幕。ねちねち
とした押し相撲で大関に昇進し、いきなり
優勝した。25歳のときである。しかし、相撲
への執着が薄く、稽古をさぼって稽古場を
よく脱走した。アロハシャツを着て場所入り
するなど行動も破天荒だった。柏鵬時代の
反逆児を自認していた。糖尿病、高血圧、
じん臓炎のため、大関の地位を明け渡した。
大関陥落後3年2場所務め、30歳で引退した。

< 若羽黒のブロマイド>

■及川
昭和32年9月場所、20歳で新入幕を果した。
及川は本名である。入門は尾上(元十両野州
山義郎)部屋であったが、のちに本家高砂
部屋に預けられた。出足鋭く押したてる相撲、
あるいは左四つから寄る相撲であった。入幕
後は伸び悩み、最高位は前頭10枚目であった。
最後は幕下で引退(廃業)した。まだ25歳で
あった。

<及川のブロマイド>

■若秩父
昭和33年九月場所、富樫(柏戸)、豊ノ海と
共にハイティーントリオとして注目された。
19歳の入幕である。その場所12勝3敗で敢闘
賞を受賞。入幕4場所目には19歳で小結に
昇進(場所中に20歳になった)し、玉錦か
照國の再来かと言われた。はでな塩まき、
童顔、あんこ型で人気があった。生涯最高の
取組は、昭和34年一月場所初日、横綱千代の
山戦であった。千代の山がはたいてつけいら
れて負けている。千代の山最後の場所であっ
た。小結4場所、関脇2場所務めた。最後は
十両で、29歳で引退した。

<若秩父のブロマイド>

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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