大相撲

北玉時代 番外

2020年5月25日

昭和45年一月場所後北の富士と玉乃島は同日
横綱に昇進した。よく同時昇進という表現を
使用するが、1つの組織が2つの件を物理的
に◆時□分■秒まで狂いなく決定できるだろ
うか。大関で連続優勝した北の富士が先に
決まったとみるのが自然である。また、先に
引退した方が先の代数にする取り決めがある
が、引退するまで代数が決まらないなんて
ナンセスであるし、合理性を欠く思考で
ある。

<北の富士>

歴史の教科書は見直されている。鎌倉幕府の
成立年は昔と違っている。頼朝がそもそも
今日から新政府を樹立すると宣言したわけで
ないから、何をもって成立とするのかの定義
が違っているのである。昔は征夷大将軍に
任命された年だったが、今は全国に守護・
地頭を配置した年に変わっている。また、
足利尊氏像とされていた肖像画は間違いで
あったことが判明した。

<玉の海>

ところが大相撲においては、同日横綱はどち
らが先になったかを含め、歴史が見直される
ことがほとんどない。例えば雲竜型・不知火
型の横綱の土俵入りはどのように決まったか、
ご存知だろうか。実は一人の相撲評論家の
思い込みによるものである。

<朝日新聞の記事>

昭和16年相撲評論家の彦山光三氏が、羽黒山
の土俵入りを不知火型と決めつけてしまった。
その根拠は、不知火(諾)が両手を広げて
立っている錦絵があることであった。そして
そのほかの土俵入りを雲竜型としてしまった。
しかし、不知火(諾)の錦絵がせり上がって
から両手を広げたとは言い切れない。

<雲竜の錦絵>

現に大砲は左手を曲げてせり上がってから
両手を広げた。また、常陸山は土俵の中央で
2度拍手を打ってから両手を広げている。
なお、大砲、常陸山の型はその後引き継がれ
ていない。今の雲竜型、不知火型は、彦山氏
によって昭和16年に根拠ともいえない根拠に
よって決まったものに過ぎない。

<不知火(光)の錦絵>

これが一人歩きしてしまったところに根本的
誤りがある。江戸の横綱雲竜も不知火(光)
もどんな土俵入りをしたかは、まるでわかっ
ていない。ただ、土俵入りは美しかったと
いう評判が伝わっているだけである。

大相撲の歴史が見直されずにいくなら、その
硬直性はいかんともしがたい。

引退、死去にともない七月場所の番付はあるのか。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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