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北玉時代 番外

昭和45年一月場所後北の富士と玉乃島は同日
横綱に昇進した。よく同時昇進という表現を
使用するが、1つの組織が2つの件を物理的
に◆時□分■秒まで狂いなく決定できるだろ
うか。大関で連続優勝した北の富士が先に
決まったとみるのが自然である。また、先に
引退した方が先の代数にする取り決めがある
が、引退するまで代数が決まらないなんて
ナンセスであるし、合理性を欠く思考で
ある。

<北の富士>

歴史の教科書は見直されている。鎌倉幕府の
成立年は昔と違っている。頼朝がそもそも
今日から新政府を樹立すると宣言したわけで
ないから、何をもって成立とするのかの定義
が違っているのである。昔は征夷大将軍に
任命された年だったが、今は全国に守護・
地頭を配置した年に変わっている。また、
足利尊氏像とされていた肖像画は間違いで
あったことが判明した。

<玉の海>

ところが大相撲においては、同日横綱はどち
らが先になったかを含め、歴史が見直される
ことがほとんどない。例えば雲竜型・不知火
型の横綱の土俵入りはどのように決まったか、
ご存知だろうか。実は一人の相撲評論家の
思い込みによるものである。

<朝日新聞の記事>

昭和16年相撲評論家の彦山光三氏が、羽黒山
の土俵入りを不知火型と決めつけてしまった。
その根拠は、不知火(諾)が両手を広げて
立っている錦絵があることであった。そして
そのほかの土俵入りを雲竜型としてしまった。
しかし、不知火(諾)の錦絵がせり上がって
から両手を広げたとは言い切れない。

<雲竜の錦絵>

現に大砲は左手を曲げてせり上がってから
両手を広げた。また、常陸山は土俵の中央で
2度拍手を打ってから両手を広げている。
なお、大砲、常陸山の型はその後引き継がれ
ていない。今の雲竜型、不知火型は、彦山氏
によって昭和16年に根拠ともいえない根拠に
よって決まったものに過ぎない。

<不知火(光)の錦絵>

これが一人歩きしてしまったところに根本的
誤りがある。江戸の横綱雲竜も不知火(光)
もどんな土俵入りをしたかは、まるでわかっ
ていない。ただ、土俵入りは美しかったと
いう評判が伝わっているだけである。

大相撲の歴史が見直されずにいくなら、その
硬直性はいかんともしがたい。

引退、死去にともない七月場所の番付はあるのか。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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