力士の現役死亡は勝武士だけではない。特に
横綱は興行上影響が大きい。横綱現役死亡は
3例ある。ただし、丸山は解釈による横綱で
あって、確実性が乏しいため、ここでは取り
あげない。なお、丸山は疫病にかかって36歳
で死亡している。
■谷風
事実上の横綱の祖。ただし、横綱の意味は
現代と異なる。地鎮祭の際の地踏み(四股と
同じ動作)が横綱の始まりのきっかけであっ
た。これを発展させたのが、相撲の家元吉田
司家であった。この儀式を土俵で行い、上覧
相撲の演目にするアイデァ打ち出したので
ある。一人で行う土俵入りにしめなわを腰に
しめて行った。このしめなわを横綱と称した。
谷風が横綱の免許を受けたのは1789年(寛政
元年)11月、関脇のときである。谷風はその
あと大関として務めたが、1794年(寛政6年)
冬場所が最後の場所になってしまった。1795
年(寛政7年)1月9日、江戸で流行した
インフルエンザにかかり、現役で死亡した。
44歳であった。
■玉錦
常陸山・梅ヶ谷以降、横綱は最高位になった。
玉錦は、成績は足りているのだが大関・横綱
にストップがかけられ、すぐに上がれなかっ
た。小部屋の悲哀だった。しかし、大関に
なったときから実質上の第一人者であった。
ほとんど2敗以内の成績であった。だが、
双葉山が初優勝すると、毎場所全勝優勝する
ようになった。玉錦は双葉山に勝てなくなっ
ていた。玉錦は「今度こそ双葉に勝つんだ」
と闘志を燃やした。
しかし、玉錦を悲劇が襲った。昭和13年の
11月の巡業中、盲腸を冷え腹だと思い込み、
温めたり、弟子に揉ませたりした。そのため、
病院に行くのが遅れた。その結果、盲腸が
破れ、腹膜炎となり、命取りとなった。急遽
入院して手術は一応成功した。だが、風邪で
肺炎を併発し、弟子の玉ノ海らが見守るなか、
玉錦は帰らぬ人となった。昭和13年暮れの
ことだった。打倒双葉はついに実現しなかっ
た。
■玉の海
玉の海の相撲が安定してきたのは、横綱4場
所目以降であった。右四つの型と腰で取る
相撲は取りこぼすことは、ほとんどなかった。
取口は双葉山と比較する楽しみが出てきて
いた。
そんな玉の海はある病気にかかっていた。
それも早く治療していれば悲劇は訪れなかっ
たろうに、と悔やまれる。玉の海は虫垂炎を
患っていた。持ち前の責任感から切らずに
注射で散らしていた。それが夏の巡業、九月
場所と長期に渡っていた。場所後も一門の
大先輩大鵬の引退相撲が10月2日に控えて
いた。大鵬最後の土俵入りの太刀持ちを務め
た。
結局、玉の海が入院したのは10月4日であり、
手術は6日になった。虫垂炎の手術だから
大事にはいたらないと誰しも思った。だが、
それから5日後の10月11日、様態は急変した。
思いがけず、右肺動脈幹に発生した血栓症が
原因で横綱玉の海は帰らぬ人となった。
27歳の青年横綱玉の海の急死。それはあまり
にも衝撃的であった。日本中の大相撲ファン
が悲しみにくれた。玉の海の訃報を知り、
虎ノ門病院に駆けつけた小坂秀二氏は次の
ように語っている。
「どうか顔を見てやって下さい」と、これも
涙の片男波夫人がうながす。「おだやかな
死に顔でした」という言葉は、死者に対する
礼であるかもしれないが、私にはどうしても
そういう言葉を用いることはできない。白布
の下の玉の海の顔は、あのいつもの明るい
玉の海の顔ではなかった。また、いつもの
無欲な玉の海の顔でもなかった。私がはじ
めて見る、玉の海の違った顔であった。それ
は、言うならば”無念の顔”であった。”
心残りの顔”であった。その顔を見て、私は
また玉の海の悲運に泣いた。(がちんこ相撲
-誰が現代の双葉山か-小坂秀二著いんなあ
とりっぷ社刊より)
玉の海の死は相撲界にあまりにも大きな損失
だった。
甲子園大会は微妙?!
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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