時代は昭和から平成へ移ろうとしていた。
大関の代では霧島が平成誕生の大関であり、
横綱では旭富士が平成誕生の横綱である。
琴風のモットーは「与えられた立場で最大限
の努力をする」である。地位に対する責任感
を感じさせる。新大関3場所を30勝15敗の
成績だが、大関を落ちるまでこれに近い実績
を残した。大関の負け越し率は、昭和以降
最高位大関のなかではトップである。
南海の黒ヒョウ若嶋津は大関昇進時若島津で
あった。大関5場所目に若嶋津になった。
若嶋津は新大関3場所目に13勝2敗の成績が
ある。このときは関脇北天佑との直接対戦に
負け、14勝1敗で北天佑に優勝を奪われて
いる。若嶋津の優勝は大関2年目であった。
大関昇進時の勢いが急速に失われた大関が
朝潮である。新大関3場所の成績が、その後
の成績を暗示していた。大関で最初に公傷が
認定された力士が朝潮である。今ならカド番
になるところがカド番にならないのだから、
大関にとっていい時代だった。北天佑にも
1場所公傷がある。小錦は9勝-12勝-8勝
と成績が安定しなかった。これがその後も
続き、初優勝は大関16場所目だった。
千代の富士はわずか大関3場所で横綱昇進を
決めている。25歳から26歳の勢いがある時期
であった。1年間で関脇・大関・横綱優勝を
している。千代の富士だけの記録である。
時代は北の湖から千代の富士へと移っていっ
た。
2代目若乃花と同じ夜行列車に乗って入門
した力士が隆の里である。隆の里が大関に
昇進したころ、若乃花はすでに横綱であった。
隆の里は大分遅れて出世したわけである。
若乃花はすでに優勝する力は失われていた。
隆の里の新大関3場所はまずまずの成績を残
した。千代の富士に対抗するのはもっと後の
ことである。
双羽黒は大関時代本名の北尾で取っていた。
新大関3場所はこちらもまずまずの成績だが、
翌場所14勝1敗の優勝同点でいきなり横綱に
昇進してしまった。いかにもつくり急いだ
感じは免れなかった。その後も優勝はなか
った。
旭富士は大関2場所目に優勝している。この
場所(昭和63年一月場所)は千秋楽に2敗
横綱千代の富士と対戦して勝ち、14勝1敗で
初優勝の栄冠に輝いている。双羽黒が優勝
なしで横綱になった批判の割をくったのが
旭富士であった。旭富士から2場所連続優勝
が事実上の絶対条件になってしまった。
(この項目続く)
まだ先ですが、プロ野球が動き出しそうです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
イラストとマークの2カ所をクリックして支援してください。