栃錦は後年こそ130キロで寄り、押しを中心
とする相撲を取ったが、入幕したときは75キ
ロあるかないかであった。栃錦が入幕した
のは昭和22年夏場所である。奇しくも鏡里と
岩平(のちの吉葉山)が新入幕であった。
また、この場所から優勝決定戦が始まり、
横綱羽黒山、大関前田山・東富士、前頭8枚
目力道山といきなり4人の同点者が出た場所
でもあった。
栃錦は特に小ちいさく、あの体でどこまで
もつのか、という見方をされていた。栃錦は
とにかく動いた。めまぐるしいほど動きまわ
った。つかまって止まったら相撲にならない。
体重で押しつぶされてしまう。動きまわって
勝機を見出すしかなかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/04/写真 栃錦-e1586659935944.jpg)
「栃錦はむだな動きが多い」と評したのは、
相撲の神様幡瀬川の楯山親方であった。栃錦
は「動いていれば体重の差は感じないですむ
し、動きはこちらのほうが速いから」と語っ
ている。炎鵬の相撲にヒントとなる一言で
あるような気がする。
栃錦が技能賞の常連となったのは、入幕5場
所目、入幕3年目であった。年3場所の時代、
1年間で2回受賞し、3年続いた。昭和27年
には年3回受賞 している。栃錦は小さいのに
よくやっている なあから恐るべき相撲にかけ
る執念に見方が 変わっていた。 平幕最後の
場所となった昭和26年春場所は 7連敗8連勝
と いう 驚異のねばりをみせて いる。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/04/羽黒山-e1586659957755.jpg)
昭和27年初場所2日目、関脇栃錦対横綱羽黒
山戦では恐るべき相撲にかける執念がみられ
た。羽黒山の上手投げが決まりかかってから、
栃錦は左下手投げを打ち返した。さらに左足
でからみ投げ。最後になんと右手で羽黒山の
左足首を刈り、さすがの羽黒山も体勢をくず
して土俵下へ落ちていった。栃錦は相手の
技が決まってから3つの技を出した、と評さ
れる一番となった。
栃錦が三役に定着したのは昭和26年の夏場所
からである。体重は80キロ。幕内の平均は
100キロから110キロであった。ただ、東富士、
鏡里、吉葉山は150キロ級であった。その
栃錦に初優勝のチャンスがやって来た。昭和
27年秋場所、14日目を迎え、関脇栃錦と大関
吉葉山が1敗で並んでいた。14日目は2人の
直接対決である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/04/吉葉山■-e1586659973725.jpg)
ところが栃錦は前夜から扁桃腺炎で40度の
高熱をだしていた。医者も師匠春日野(元
栃木山)も出場は無理と言うなか、栃錦は
「お客さんはこの一番を見においでなさる」
と強行出場した。かん口令がしかれ、絶対
秘密となった。高熱の中で栃錦がはなった
二枚蹴りに吉葉山が宙に浮き、土俵に沈んだ。
栃錦は初優勝し、大関昇進を決定したので
あった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/04/栃-錦-e1586659990883.jpg)
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