大相撲

一人大関の時代2

昭和戦前に一人大関は3度ある。最初は昭和
11年の夏場所である。清水川だけになった。
これは大関だった男女ノ川が横綱に昇進した
ためにおきた。今日の基準と違うとはいえ、
男女ノ川は8勝3敗、9勝2敗による優勝な
き横綱昇進であった。横綱になっても優勝は
なかった。清水川の一人大関は、双葉山が
関脇で11戦全勝優勝し、9勝2敗の関脇鏡岩
と同日大関に昇進し、1場所で終わった。

<清水川のブロマイド>

2度目は昭和13年春場所の鏡岩である。双葉
山が69連勝中の場所である。双葉山が横綱に
昇進し、大関清水川が引退したことによって
生じた。大関鏡岩が36歳で成績が不調という
ことがあって、11勝2敗の前田山が小結から
大関に昇進した。そのため、1場所限りと
なった。前田山はこのあと9年間大関時代が
続いた。

3度目は19年夏場所の前田山である。名寄岩
が大関から陥落したためにおきた。ただ、
横綱は双葉山、羽黒山、安芸ノ海、照國と
4人いたから番付に寂しさはなかった。7勝
3敗の佐賀ノ花が大関に昇進して一人大関は
解消された。

<前田山のブロマイド>

昭和戦前は清水川・鏡岩・前田山が一人大関
を1場所経験している。

戦後昭和20年代は一人大関のケースはみあた
らない。昭和30年代は3人の一人大関が生ま
れている。最初の一人大関は昭和30年初場所
の三根山である。栃錦が連続優勝で横綱に
昇進したためにおこった。この状態は2場所
続いた。昭和30年夏場所大内山が11勝4敗、
13勝2敗で大関に昇進し、2場所限りとなっ
た。

<三根山のブロマイド>

その大内山が大関2場所目の昭和30年秋場所
に一人大関になった。三根山が大関から陥落
したためである。翌場所松登、若ノ花が大関
に昇進して解消された。若ノ花は10勝4敗
1分-8勝7敗-10勝4敗1分と星は不十分
で、本人も大関に上がれるとは思ってなかっ
た。ところが、横綱千代の山と17分を超える
死闘が評価されての大関昇進だった。

大関琴ヶ濱は3場所に渡って一人大関を経験
している。昭和34年五月場所から九月場所
までである。朝汐が横綱に昇進したために
おきた。若羽黒が大関に昇進してようやく
終わった。しかし、若羽黒は7勝8敗-11勝
4敗-12勝3敗で3場所30勝15敗のため、
議論を呼んだ。

<琴ヶ濱のブロマイド>

昭和30年代は三根山2場所、大内山1場所、
琴ヶ濱3場所が一人大関であった。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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