大相撲

一人大関の時代1

豪栄道の引退によって三月場所は貴景勝の
一人大関になる。番付上は横綱鶴竜を横綱
大関とするのだろうが、特別な意味はない。
鶴竜が大関として土俵入りをするわけでも、
1日に大関として、横綱として2番取るわけ
ではない。月給は横綱と大関分いただける
わけでもない。そういうわけで実質は貴景勝
の一人大関になる。こういうときは朝乃山を
多少甘い成績でも昇進させるかもしれない。

一人大関は過去にもある。西ノ海が番付上
初めて横綱と表記されたのは明治23年夏場所
である。それ以降を調査してみた。最初の
一人大関は明治29年夏場所である。前場所
大関小錦が横綱免許を許され横綱に、大関
大碇が関脇に降格したため、大関は大戸平
一人になった。しかし、翌場所鳳凰が大関に
あがって1場所で解消した。ただし、大戸平、
鳳凰とも西方で東大関は空位であった。

<大戸平 ブロマイド的 集合写真より>

西2大関も翌場所大平戸が引退して、明治
30年夏場所は鳳凰の一人大関になった。この
状態は2場所続いた。明治31年夏場所、朝汐
が大関に昇進して解消された。

ところが明治37年春場所は一人大関どころか、
大関が一人もいない場所となった。先場所
大関だった常陸山、梅ヶ谷が同日横綱になり、
大関が空白となったのである。この当時、
事実上横綱は大関の上の地位になっていた。
この状態が3場所続いた。明治33年夏場所、
國見山と荒岩が大関にあがり、大関空白は
なくなった。

<太刀光のブロマイド>

大正時代は1度ある。大正13年夏場所、大関
は太刀光一人となった。常ノ花が横綱に昇進
したためにおきた。翌場所大ノ里が大関に
なって1場所限りで終わった。

明治大正時代、一人大関は大戸平1場所、
鳳凰2場所、大関空位3場所、太刀光1場所
である。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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