横綱が実質地位化した常陸山以降、横綱誕生
が5年以上空いたことが3度ある。最初は
玉錦が横綱でデビューするまでである。6年
経っていた。玉錦の前の横綱は常ノ花なので、
常ノ花の横綱誕生から6年かというと、それ
は違う。
それはどういうことか。次ぎのような事情が
あったからである。大阪横綱の宮城山は常ノ
花、その前の3代目西ノ海以前に既に横綱で
あった。だが、それはあくまで独立した別
団体の大阪相撲においての話であって、東京
相撲には影響のない話であった。ところが、
その宮城山が東西合併によって東京相撲の
土俵にあがったのが、昭和2年春場所であっ
た。そこから6年かかって横綱玉錦が誕生
したのであった。
昭和5年10月場所、横綱常ノ花が引退。昭和
6年3月場所、横綱宮城山が引退すると、
それは横綱の空白時代を意味していた。昭和
5年10月場所から大関玉錦は3連覇していた
が、それでも横綱になれなかった。玉錦が
横綱として場所を務めたのは昭和8年春場所
からであった。
大関時代が長い、と言われていた佐田の山が
ようやく横綱に昇進したのが、昭和40年一月
場所後で、デビューは三月場所であった。
そのときは大鵬、柏戸、栃ノ海、佐田の山の
4横綱時代であった。ところが、佐田の山
以降、横綱はしばらく誕生しなかった。玉乃
島がチャンスをつかむも決定までいかなかっ
た。次の横綱が誕生する以前に、栃ノ海、
佐田の山、柏戸が引退し、大鵬の一人横綱に
なってしまった。
燃える要素があるときの北の富士は強い。
清國の新大関優勝に刺激を受けた北の富士は、
大関で連続優勝して横綱昇進を決めた。佐田
の山の横綱誕生から5年経っていた。大関
時代が長いといわれた佐田の山が17場所だっ
たが、北の富士はそれを上回る大関21場所で
あった。
3度目は日馬富士のときである。白鵬が横綱
でデビューしたのは平成19年七月場所であっ
た。先輩横綱に朝青龍がいた。ところがお騒
がせ横綱朝青龍は一般人暴行で引退。平成
22年三月場所から白鵬の一人横綱時代が続い
た。この間白鵬は63連勝、7連覇など無敵の
地代であった。
そこへ割ってはいったのが日馬富士であった。
平成24年七月場所、九月場所で大関貴乃花
以来の連続全勝優勝という思いもよらぬカタ
チで横綱日馬富士が誕生した。白鵬横綱昇進
から5年4ヶ月経っていた。日馬富士の大関
在位場所数は22場所に及んでいた。
現代は横綱候補不在の時代である。横綱誕生
はいつ、誰によってなされるか。歴史の歯車
は何も暗示することなくまわっていく。
寝苦しい日々です。
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