朝乃山の優勝を太刀山以来の富山県出身力士
の優勝と紹介するメディアがあった。太刀山
は明治末から大正6年ごろまで活躍した強豪
力士であるが、この当時は厳密にいうと優勝
制度はなかった。あったのは時事新報社に
よる幕内最高成績者の額を国技館に掲げる
制度である。
なにより優勝を争う仕組みができていなかっ
た。引き分け、預かりは多く、最も大きな
問題は、対戦相手が休場すると自分も「や」
扱いになったことである。これでは本当に
その場所の最高成績者を選出することはでき
ない。
協会が優勝制度を正式に設定、認可したのは、
大正15年からである。賜杯はこのときから
渡されるようになった。したがって正式な
優勝力士は大正15年春場所の常ノ花が優勝
力士第1号である。優勝制度が正式に設定・
認可されることによって、不戦勝不戦敗制度
や段階的に取り直し制度が導入されるように
なった。
<常ノ花のブロマイド>
常ノ花を優勝力士1人目とすると2人目以下
は次のようになった。
する力士が記念すべき幕内優勝力士100人目
になる。昭和最初の初優勝力士は宮城山で
ある。戦後初の初優勝力士は東冨士。年6
場所制がスタートした昭和33年以降で初優勝
した力士は若羽黒、部屋別総あたり制が始ま
った昭和40年以降では北の富士、平成最初の
初優勝は小錦である。
なお、99人の優勝者のうち現役も含め、47人
が初優勝で終わっている。
雨が多すぎます。
今年初、スイカを食べました。
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よしなに
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