名伯楽の一人に元増位山(父)の三保ヶ関
親方があげられる。横綱北の湖、大関増位山・
北天佑をはじめ多くの幕内力士を育てた。
増位山(父)は大阪相撲の流れを組む三保ヶ
関部屋に所属していた。師匠の元滝ノ川が
急死したため、出羽海(元両国=前名国岩)
部屋に身を寄せていた。これは師匠の滝ノ川
が大阪に居住をかまえながら東京本場所の
とき、出羽海部屋に身を寄せていた時期が
あったからである。三保ヶ関系が出羽海一門
に所属しているいきさつが、ここにあった。。
昭和25年、増位山(父)は引退後三保ヶ関
部屋を復興した。当初の関取は弟弟子の増巳
山で厳しい部屋経営が続いた。後におかみ
さんは質屋に通ったことがあったと告白して
いるほどである。昭和44年九月場所、大竜川
が十両に昇進した。部屋を復興させてから
20年近くが立っていた。
そして北の湖という逸材が17歳で十両入り
すると三保ヶ関部屋は花開した。北の湖は
中学生で入門し、両国の中学に通っていた。
なお、今は中学生の入門は禁止されている。
北の湖は昭和47年一月場所に入幕すると2年
後には初優勝して場所後大関に昇進している。
さらにその年の七月場所後には史上最年少で
横綱に昇進している。
からは北の湖と北天佑が独立した。また、
昭和59年定年にともない、部屋は息子の元
増位山に引き継がれた。引き継がれた部屋で
把瑠都が育てられた。息子増位山の三保ヶ関
部屋から肥後ノ海と濱ノ嶋が独立した。濱ノ
島の場合は把瑠都、里山の関取、幕下有望の
白石(後の白乃波)を連れての豪華独立で
あった。
平成25年9月、元増位山(子)の三保ヶ関は
定年を迎えた。後継者はいなかった。これを
気に阿覧は引退した。分家として木瀬(肥後
ノ海)部屋、尾上(濱ノ嶋)部屋、山響(元
巌雄)部屋が存立するなか、本家三保ヶ関は
完全に消えてしまった。
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