大相撲

消えた本家

2018年10月24日

名伯楽の一人に元増位山(父)の三保ヶ関
親方があげられる。横綱北の湖、大関増位山・
北天佑をはじめ多くの幕内力士を育てた。

増位山(父)は大阪相撲の流れを組む三保ヶ
関部屋に所属していた。師匠の元滝ノ川が
急死したため、出羽海(元両国=前名国岩)
部屋に身を寄せていた。これは師匠の滝ノ川
が大阪に居住をかまえながら東京本場所の
とき、出羽海部屋に身を寄せていた時期が
あったからである。三保ヶ関系が出羽海一門
に所属しているいきさつが、ここにあった。。
北 三保2
<三保ヶ関部屋>

昭和25年、増位山(父)は引退後三保ヶ関
部屋を復興した。当初の関取は弟弟子の増巳
山で厳しい部屋経営が続いた。後におかみ
さんは質屋に通ったことがあったと告白して
いるほどである。昭和44年九月場所、大竜川
が十両に昇進した。部屋を復興させてから
20年近くが立っていた。
北 三保!
<三保ヶ関と北の湖>

そして北の湖という逸材が17歳で十両入り
すると三保ヶ関部屋は花開した。北の湖は
中学生で入門し、両国の中学に通っていた。
なお、今は中学生の入門は禁止されている。
北の湖は昭和47年一月場所に入幕すると2年
後には初優勝して場所後大関に昇進している。
さらにその年の七月場所後には史上最年少で
横綱に昇進している。
三保ヶ関系統A
<三保ヶ関の系統>

月日は流れ、元増位山(父)の三保ヶ関の元

からは北の湖と北天佑が独立した。また、
昭和59年定年にともない、部屋は息子の元
増位山に引き継がれた。引き継がれた部屋で
把瑠都が育てられた。息子増位山の三保ヶ関
部屋から肥後ノ海と濱ノ嶋が独立した。濱ノ
島の場合は把瑠都、里山の関取、幕下有望の
白石(後の白乃波)を連れての豪華独立で
あった。
110522千秋楽幕内・表彰 1067
<元増位山(子)の三保ヶ関>

平成25年9月、元増位山(子)の三保ヶ関は
定年を迎えた。後継者はいなかった。これを
気に阿覧は引退した。分家として木瀬(肥後
ノ海)部屋、尾上(濱ノ嶋)部屋、山響(元
巌雄)部屋が存立するなか、本家三保ヶ関は
完全に消えてしまった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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