大相撲

今の井筒部屋は本家井筒部屋の分家

2018年8月20日

井筒部屋といえば横綱鶴竜をかかえる部屋で
ある。師匠は元逆鉾で、父の鶴ヶ嶺から部屋
を引き継いで今日に至っている。横綱を擁
する部屋としてはいささか弟子の数が寂しい
状態である。井筒部屋というと名門のイメー
ジがあるが、今の井筒部屋は、実は本家井筒
部屋の分家なのである。どういうことか。
まず系統図をみていただきたい。いきさつは
こうである。
井筒系統A
井筒部屋の創設者は明治の横綱初代西ノ海で
ある。西ノ海は最初京都相撲に加わっていた
が、高砂改正組の巡業に加わり、高砂部屋に
入門した。そうした流れから井筒部屋のルー
ツは高砂なのである。たが、明治の末期以前
は本家、分家による一門意識はまだなかった。
井筒部屋は2代目西ノ海、先代星甲へと引き
継がれていった。

昭和19年、先代星甲の井筒が亡くなられた。
先代鶴ヶ嶺(最高位前頭2枚目)は二枚監察
(親方と現役を兼ねるシステム=現在は禁止
されている)を申し出たが、認められず、
井筒部屋の力士は双葉山相撲道場に身をよせ
ることになった。昭和22年、先代鶴ヶ嶺が
引退後、あらためて井筒部屋を復興した。
このあたりが、井筒部屋が時津風一門にはい
るきっかけになっている。
星甲

<前頭4枚目星甲のブロマイド>

昭和47年3月、先代鶴ヶ嶺の井筒が亡くなる
と、後継者争いがおきた。候補は陸奥(元
前頭4枚目星甲)と君ヶ浜(元関脇鶴ヶ嶺)
である。後継者争いに敗れた君ヶ浜(元関脇
鶴ヶ嶺)は独立して君ヶ浜部屋をおこした。

一方陸奥(元前頭4枚目星甲)は井筒となっ
てめでたしめでたしとはいかなかった。遺族
とのごたごたから、井筒の名称を使わず、
陸奥部屋としてスタートすることになった。
井筒の名称は2年間で終焉を迎えた。そして
井筒の株は北の富士の手に渡った。
井筒A
<君ヶ浜独立の記事>

北の富士は昭和49年に引退し、九重(元千代
の山)部屋から独立した。元千代の山の九重
が独立に苦労しただけに、北の富士の独立
には綺麗で苦労のない独立をさせた。ところ
が昭和52年10月、九重が51歳の若さで他界
してしまったのである。元北の富士の井筒は
急遽九重を名のり、2つの部屋を合体させて
再スタートした。
鶴ヶ嶺
<関脇鶴ヶ嶺のブロマイド>

元北の富士が九重となったことを受け、君ヶ
浜(元関脇鶴ヶ嶺)は井筒の株取得に動いた。
こうして君ヶ浜部屋は井筒部屋に改称して
現在に至っている。つまり現在の井筒部屋は
本家井筒部屋より独立した君ヶ浜部屋が名称
を変えた部屋なのである。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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