東西合併後年4場所だった大相撲は、昭和
8年から年2場所制に戻っている。この時期
関脇で優勝した力士は翌場所皆大関に昇進
している。
ある。男女ノ川は昭和7年におきた春秋園
事件で協会を脱退していた。復帰した昭和
8年春場所、番付に四股名がなく、急遽別席
として本場所に参加した。その場所、横綱
玉錦、大関清水川・武蔵山を倒して優勝して
いる。2回目の関脇優勝の翌場所大関に昇進
している。ただし、この関脇優勝が男女ノ川
最後の優勝になった。
いる。2回目の関脇優勝の翌場所大関に昇進
している。ただし、この関脇優勝が男女ノ川
最後の優勝になった。
双葉山は関脇で唯一の全勝優勝を達成して
いる。11戦全勝。15日制とは比較できないが、
11日制であるのは時代の限界というしかない。
このときすでに69連勝は始まっていた。これ
まで第一人者であった玉錦は以後双葉山に
勝てず、優勝もできなかった。双葉山の関脇
優勝は覇者交代の場所となった。
系統別総当たり15日制の関脇優勝力士をみて
いこう。
と勝負への執念と技能が栃錦を支えていた。
昭和27年秋場所の関脇優勝時は年3場所制で
あり、5場所連続技能賞を受賞していた。
これまで上位の最高成績が10勝5敗だった
栃錦が初日から勝ち進み、14勝1敗で見事
初優勝の栄誉に輝いた。栃錦は感激のあまり
涙が止まらなかった。この優勝で栃錦は大関
昇進を成し遂げた。
朝汐は2回関脇優勝という稀な記録をもつ。
最初の優勝は、9勝-9勝-12勝優勝で大関
昇進は翌場所にかけることになる。ところが、
翌場所は8勝で大関昇進はならなかった。
2度目の関脇優勝は8勝-8勝-13勝優勝と
成績だけみると、物足りなく見える。ところ
が、朝汐は2回目の関脇優勝のとき、三賞を
受賞していないのである。つまり朝汐なら
優勝ぐらいやってのけて当然と見られていた。
勝つときは圧倒的な強さ、破壊力を発揮した。
2回目の関脇優勝でようやく朝汐は大関昇進
をはたした。
(この項目続く)
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