大相撲

関脇以下の優勝力士キラー1

2018年6月19日

五月場所、松鳳山は横綱鶴竜に勝ちながら、
殊勲賞は鶴竜が優勝した場合というので、
最後まで待たされた。幸い結びの一番で鶴竜
が白鵬を寄り切り、14勝1敗で優勝を決めた
ので、松鳳山の殊勲賞受賞が決定した。松鳳
山は優勝鶴竜に勝った唯一の力士として価値
ある1勝をあげたわけである。

それでは、優勝力士を倒した関脇以下の力士
は誰か。改めて歴史の流れとともに調べて
みた。
キラー大正A
明治42年夏場所、国技館開設とともに時事
新報社が幕内最高成績者の写真額を国技館に
掲げるシステムが始まった。優勝制度の前身
であるが、引き分け、預かり、相手力士が
休場すると自分も休場扱いになるなど、制度
的に未整備であった。このなかで歴史的一番
となったのは大正5年夏場所の横綱太刀山対
小結栃木山の一戦である。
横綱 太刀山
<太刀山のブロマイド>

太刀山が横綱になったのは明治44年夏場所で
ある。この場所で5年と1場所目であった。
先場所まで優勝相当の成績は10回を数えて
いた。なおかつ栃木山との対戦まで56連勝中
であった。ただし、この56連勝は間に全休が
3場所あり、厳密な連勝ではなかった。それ
でも負けない強豪としてのイメージは浸透
していた。

栃木山は入幕4場所目であった。8勝2敗-
5勝4敗1分-7勝3敗できた。これまで
太刀山とは大正4年夏場所初顔合わせで敗れ
ている。今回が2度目の顔合わせであった。
栃木山A
<栃木山のブロマイド>

横綱太刀山対小結栃木山の一番は終盤8日目
(当時は10日制)に組まれた。立ち合い栃木
山が飛び込んで右差し。太刀山小手に振り、
右をあてがい割り出しにいく。栃木山この
攻撃をしのいで、左をいれてもろ差し。太刀
山強引に寄らんとするも栃木山右すくい投げ
で揺さぶり、渾身の力をふりしぼって寄り
立て、ついに寄り切った。
1987年パンフレット
<栃木山対太刀山戦が表紙に
なったパンフレット>

太刀山という偶像が破壊された瞬間であった。
国技館は狂乱の騒ぎであった。号外が出る
ほどであった。花道を引き上げる栃木山の
背中には100円札が2枚貼られていたという。
現在の価値に直すと100円は約10万2700円に
なる。ご祝儀は1万2000円になったという。
まさに値千金の殊勲であった。

ワールドカップは番狂わせが目立ちます。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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