大相撲

大相撲優勝・次点力士6 昭和50、60年代

2018年4月27日

昭和51年から輪島と北の湖が本格的に対抗
する時代へ突入した。次点は当然優勝者に
次ぐ成績の力士だが、横綱・大関と対戦の
ない力士及び部分対戦力士ははずした。複数
いるときは上位力士とした。
S50-1A
この時期優勝・次点を輪島、北の湖で連ねた
ことが7回ある。この時期北の湖は優勝7回、
次点が8回という数字をあげた。輪島は優勝
5回、次点4回している。これに貴ノ花、
魁傑、旭國の個性派が彩った。輪島に変わっ
て浮上してきたのは若三杉(後の2代目若乃
花)であった。

輪島北の湖
<輪島(左)と北の湖>

S50-2A
この時期は北の湖時代といっていい。2代目
若乃花は北の湖に対抗できず、2番手の存在
であった。優勝・次点を輪島、北の湖で連ね
たことは昭和53年七月場所が最後になった。
通算12回を記録した。輪湖時代は確かに一時
代を築いた。輪島の次点は11回に及んだ。
北の湖を脅かす存在として千代の富士が台頭
してきた。
S50-3A
千代の富士は投げの相撲から前褌を取って
出る相撲に変えて急速に成長してきた。時代
は千代の富士に移ってきた。2代目若乃花と
隆の里は同じ列車で二子山(元初代若乃花)
が青森から連れてきた弟子だった。出世は
2代目若乃花が早かったが、昭和58年1月
限りで引退した。2代目若乃花の次点は
12回を数えた。
千代の富士
<千代の富士>

一時期隆の里が千代の富士に立ちふさがった。
両者の相星決戦は見応えがあった。隆の里が
3勝1敗と怪力で千代の富士を押さえ込んだ。
昭和50年代末、北の湖はすでに晩年であった。
次点は17回で柏戸の15回を超えた。
S60A
昭和60年から東京の会場は蔵前国技館から
現在の両国国技館に移った。昭和60年代も
千代の富士の時代であった。2つの象徴的
できごとがある。1つは、昭和61年から昭和
62年にかけ、5連覇を達成したことである。
もう1つは、昭和63年に53連勝を達成した
ことである。連勝を止めたのはガチンコ横綱
大乃国であった。昭和最後の場所の千秋楽の
できごとであった。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人
denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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