昭和40年から部屋別総当たり制が始まった。
これはNHK解説者の玉の海梅吉氏が、時津
風(元双葉山)理事長に進言したことに始ま
る。時津風理事長は、好取組が増えるという
世論をバックに協会内の反対論を「いまや
人情におぼれているときではない」と一括し、
実現した。
次点は当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、
横綱・大関と対戦のない力士及び部分対戦
力士ははずした。複数いるときは上位力士と
した。
横綱に昇進した。大鵬との一番は、対戦成績
はともかく、相撲内容は熱戦が多く、力一杯
の相撲を取った。部屋別総当たり制になって
も、大鵬の優勝独占は続いた。昭和41年三月
場所から第二次6連覇を達成している。
これをストップしたのは、優勝経験のなかっ
た大関北の富士である。元千代の山の九重が
出羽海部屋から破門独立し、千代の山を慕っ
て入門した北の富士は行動をともにした。
燃える要素があるときの北の富士は一段と
強かった。
大鵬は昭和42年十一月場所から5場所連続
休場というピンチに陥る。そのさなか佐田の
山は連続優勝直後の昭和43年三月場所突然
引退して出羽海を襲名した。佐田の山の優勝
は6回だが、次点は11回に及んだ。柏戸は
衰えが目立ってきた。一人横綱になった大鵬
に「大鵬関すまない」という気持ちで、昭和
44年七月場所限り引退した。柏戸は優勝5回
だが、次点は15回までいった。
場所の初日栃東に負けるとその後連戦連勝を
続けた。連勝を積み重ねて45連勝までいった。
だが、46連勝目を誤審で負けにされるという
ショッキングでかつ歴史に汚点を残す結果に
なった。時代は大鵬から北の富士・玉の海に
移っていった。
大鵬は昭和44年七月場所から衰えが目立って
きた。それでも、北の富士、玉の海の新横綱
優勝を阻止したり、全勝をストップしたり
した。大鵬晩年の意地であった。昭和46年
五月場所の貴ノ花戦を最後に引退した。次点
は12回までいった。
北の富士、玉の海は、横綱に2、3場所まで
は北の富士が先行した。だが、しだいに玉の
海の安定性におされていくようになる。玉の
海の腰で取る相撲、胸を合わせて取る相撲は
大きさを感じさせ、双葉山と比較できる楽し
みが出てきていた。だが、玉の海は昭和46年
10月、現役のまま帰らぬ人となってしまった。
玉の海の次点は9回であった。
場所から七月場所まですべて初優勝という
珍事となった。それも誰が優勝するか予想が
まるで立たなかった。そうしたなかから、
浮上してきたのが輪島であった。輪島の堅実
な取口、勝ちにもっていく過程のうまさは
天才的であった。
輪島に対抗したのは、若くて伸び盛りの北の
湖であった。輪島が横綱に昇進した7場所後
に最年少で横綱に昇進した。当時の北の湖に
期待する大きさは普通ではなかった。双葉山
のような大力士であり、大鵬の優勝記録を
破らんとする器であった。それでもこの時期、
の対戦、優勝は輪島が先行した。
(この項目続く)
韓国の財閥問題はレベルが違う。
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