昭和33年名古屋が本場所に昇格し、年6場所
制がスタートした。あまりの間隔の短さに
「優勝候補は先場所の優勝者になるのでは」
という見方がされたほどであった。また、
大日本相撲協会が日本相撲協会に改称した年
でもある。
<栃錦のブロマイド>
次点は当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、
横綱・大関と対戦のない力士及び部分対戦
力士ははずした。複数いるときは上位力士と
した。
ある。栃錦が引退する昭和35年五月場所まで、
栃錦、若乃花が優勝か次点に名前がないのは、
昭和33年三月場所1場所だけである。千代の
山の優勝はこの時期なかったが、次点は通算
7回を記録した。栃錦は優勝が10回あるが、
次点も10回になった。栃若時代の相撲を見た
方は、最高に面白かったと語る。
昭和35年から大鵬、柏戸が台頭してきていた。
将来の横綱を期待される逸材であった。そし
てまさにそうなった。今こうした逸材に出会
えることはない。
若乃花は現役だったが、優勝はなかった。
次点は7回になった。大鵬が優勝を独占する
なか、次点はライバル柏戸と闘志の佐田の山
が数を重ねていった。大鵬の牙城に挑んだ
技能派栃ノ海と学生横綱出身の豊山は力及ばず
であった。大鵬をとりまく強敵は、白鵬より
難しい相手だったといえる。
昭和40年から新たな制度として部屋別総当た
り制がスタートした。
(この項目続く)
4月とは思えぬ暑さが続きます。
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