大相撲

知られざる旧両国国技館

2017年6月18日

沖縄で開催されるAKB総選挙が、悪天候の
ため公民館で無観客選挙になった。開催場所
はビーチだが、すでに田んぼのような状態だ
という。さらに天候は連日雨だという。いま
さらながら野外興行の難しさを感じさせる。

以前、大相撲史を真二つに分けるとしたら、
常設館以前と以後ということを書いた。野外
興行は千秋楽がいつになるかわからなかった。
30日以上かかった場所さえあった。中には
天候が回復せず、途中で打ち切りになった
場所もあった。ちなみに徳俵は土俵にたまっ
た雨水をはきだすために設けられている。
国技館
<旧両国国技館の絵葉書>

旧両国国技館は知られているようで知られて
いない。天候に左右されない常設館の機運は
明治39年に起こった。目的は天候だけでなく、
外国人にきちんとしたカタチで観戦していた
だくことも含まれていた。設計者は近代建築
の第一人者辰野金吾である。そして2年弱の
工期で明治42年に完成した。場所は本所区
両国元町。現在の回向院あたりにあたる。
屋根は円形で、ガラスばりにして光をとる姿
にした。

収容人員は13000人で現在の両国国技館より
多い。正面に貴賓席があった。一般観覧席は
土間から4階までで、土間の桟敷は16雛壇。
6人桝が1000桝あった。建設の中心となった
のは、雷(元初代梅ヶ谷)と友綱(元海山)
であった。土地代3万円、工費27万円で現在
だと30億円くらいに相当する。
葉書】両国国技館内
<旧両国国技館内の絵葉書>

苦心の末完成した両国国技館は火災がつき
ものだった。大正6年に火災で全焼した。
大正9年に再建したのもつかの間、大正12年
の関東大震災で再び焼失してしまう。大正
14年再々建した。太平洋戦争の開始とともに
陸軍に接収される運命となった。そして昭和
20年の東京大空襲でまたも焼失してしまう。

戦後メモリアルホールに改称され、GHQに
接収された。その後国際スタジアム、日大
講堂、両国シティコアと姿を変え、旧両国
国技館の姿は永遠に失われてしまった。

うっちゃりトークに行ってきました。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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