大相撲

横審誕生以前の横綱の昇進3

2017年2月26日

横審以前の昇進3A
同じ出羽ノ海部屋の大錦が大関3場所、栃木
山が大関2場所で通過したのに対し、常ノ花
は8場所かかった。新大関の場所をケガで
全休したしたり、低迷期があったりした。
だが2度目の優勝のあと8勝2敗で横綱に
昇進した。大関で間隔があいた優勝で横綱に
なったのは、常ノ花が初めてである。負けん
気で、相撲は突っ張り、右差しからの速攻。
櫓投げなど華やかで派手な相撲だった。大正
15年から協会認定の優勝制度が始まり、第1
号の優勝者となった。大正末から昭和初期の
相撲界を支えた。
横綱・常の花
<常ノ花のブロマイド>
 
昭和2年、東西合併によって年4場所になっ
た。2場所は名古屋より西で興行されるよう
になった。最初は東京場所だけの番付編成、
地方場所だけの番付編成と分けて番付を発表
していたが、力士によっては、東京と地方に
番付差がありすぎた。そのため、昭和3年
夏場所から東京場所と地方場所の合計で番付
を編成するようになった。年4場所は昭和7
年まで続いた。

昭和6年春場所、大阪横綱の宮城山が引退
して横綱不在になった。大関玉錦は、昭和5
年10月場所から3場所連続優勝した。それで
いて横綱に昇進できなかった。3連覇して
横綱に昇進できなかったのは、玉錦ただ一人
である。なぜなのか。ニ所ノ関部屋という
小部屋の悲哀か。当時ニ所ノ関部屋は稽古場
がなく、玉錦は出羽海(元両国)部屋の預か
り弟子になっていた。喧嘩玉と呼ばれる粗暴
さ、本場所の土俵に見られる傲岸さが見られ
た。また、相撲界は武蔵山と朝潮(後の男女
ノ川)の対戦が人気を呼んでいた。
玉錦
<玉錦のブロマイド>
 
昭和7年から系統別総あたりになったが、
その年の10月場所後、玉錦はようやく横綱に
昇進した。直前の成績は7勝4敗ともう一つ
だが、春秋園事件で協会に留まったことと
大関時代の優勝4回と実績が認められた。
玉錦は八百長嫌いで、後年は誰も頼みに行か
なかったほどである。この点は最も評価され
ていい。

武蔵山は横綱皆勤1場所で、散々な成績しか
残していない。そのためワースト横綱の代表
的力士という見方がある。しかし、小結まで
の武蔵山は大変な人気であった。昭和5年
春場所千秋楽、武蔵山対朝潮(後の男女ノ川)
戦は満員札止めになったほどである。それも
ほとんど武蔵山人気であった。昭和6年10月
場所小結のとき、沖ツ海との一戦で右ひじを
痛めたことが致命的になった。この場所後
大関に昇進したが、破壊された右腕は完治
することはなかった。大関では優勝がない
まま横綱に昇進したが、満足に土俵を務め
られなかった。
武蔵山
<武蔵山のブロマイド>

改めて稀勢の里のニュースの多さに
閉口しています。

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  • この記事を書いた人
denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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