MENU

横審誕生以前の横綱の昇進3

横審以前の昇進3A
同じ出羽ノ海部屋の大錦が大関3場所、栃木
山が大関2場所で通過したのに対し、常ノ花
は8場所かかった。新大関の場所をケガで
全休したしたり、低迷期があったりした。
だが2度目の優勝のあと8勝2敗で横綱に
昇進した。大関で間隔があいた優勝で横綱に
なったのは、常ノ花が初めてである。負けん
気で、相撲は突っ張り、右差しからの速攻。
櫓投げなど華やかで派手な相撲だった。大正
15年から協会認定の優勝制度が始まり、第1
号の優勝者となった。大正末から昭和初期の
相撲界を支えた。
横綱・常の花
<常ノ花のブロマイド>
 
昭和2年、東西合併によって年4場所になっ
た。2場所は名古屋より西で興行されるよう
になった。最初は東京場所だけの番付編成、
地方場所だけの番付編成と分けて番付を発表
していたが、力士によっては、東京と地方に
番付差がありすぎた。そのため、昭和3年
夏場所から東京場所と地方場所の合計で番付
を編成するようになった。年4場所は昭和7
年まで続いた。
昭和6年春場所、大阪横綱の宮城山が引退
して横綱不在になった。大関玉錦は、昭和5
年10月場所から3場所連続優勝した。それで
いて横綱に昇進できなかった。3連覇して
横綱に昇進できなかったのは、玉錦ただ一人
である。なぜなのか。ニ所ノ関部屋という
小部屋の悲哀か。当時ニ所ノ関部屋は稽古場
がなく、玉錦は出羽海(元両国)部屋の預か
り弟子になっていた。喧嘩玉と呼ばれる粗暴
さ、本場所の土俵に見られる傲岸さが見られ
た。また、相撲界は武蔵山と朝潮(後の男女
ノ川)の対戦が人気を呼んでいた。
玉錦
<玉錦のブロマイド>
 
昭和7年から系統別総あたりになったが、
その年の10月場所後、玉錦はようやく横綱に
昇進した。直前の成績は7勝4敗ともう一つ
だが、春秋園事件で協会に留まったことと
大関時代の優勝4回と実績が認められた。
玉錦は八百長嫌いで、後年は誰も頼みに行か
なかったほどである。この点は最も評価され
ていい。
武蔵山は横綱皆勤1場所で、散々な成績しか
残していない。そのためワースト横綱の代表
的力士という見方がある。しかし、小結まで
の武蔵山は大変な人気であった。昭和5年
春場所千秋楽、武蔵山対朝潮(後の男女ノ川)
戦は満員札止めになったほどである。それも
ほとんど武蔵山人気であった。昭和6年10月
場所小結のとき、沖ツ海との一戦で右ひじを
痛めたことが致命的になった。この場所後
大関に昇進したが、破壊された右腕は完治
することはなかった。大関では優勝がない
まま横綱に昇進したが、満足に土俵を務め
られなかった。
武蔵山
<武蔵山のブロマイド>

改めて稀勢の里のニュースの多さに
閉口しています。

 興味深いテーマをこれからもお届けます。
マーク2カ所をクリックして支援してください。

よしなに
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村 

相撲 ブログランキングへ 

↑↑↑↑↑↑↑↑↑           

 

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次