戦後の横綱には2つの特徴がある。一つは横綱の権威が
揺らいだこと。もう一つは横綱量産の時代であった。大関で
ちょっといい成績をあげると横綱に上がれた時代であった。
ちょっといい成績をあげると横綱に上がれた時代であった。
終戦直後4横綱継続の時代はあったが、双葉山引退後の
戦後初の4横綱は、東富士の新横綱昇進によって昭和24
年春場所生まれた。しかし、その場所は先輩横綱羽黒山、
照國が全休、前田山が途中休場というしまらないスタートと
なった。東富士は孤軍奮闘して優勝した。
4横綱のなかで、前田山は横綱として満足がいく成績が
まるで残せない。6勝5敗、1敗10休、3勝6敗2休で4横
綱時代を迎えていた。要するに前田山は横綱の責任を果
たせず、横綱の権威を汚していた。
綱時代を迎えていた。要するに前田山は横綱の責任を果
たせず、横綱の権威を汚していた。
羽黒山、照國、前田山、東富士の4横綱時代は3場所目
を迎えた、昭和24年秋場所が大阪で開催された。この場
所、前田山は初日の1勝しかできず、5連敗。途中休場
して帰京した。東京では戦後初めてアメリカ野球が来日
していた。といってもメジャーリーグではなく、3Aのシー
ルズというチームであった。
ルズというチームであった。
野球好きの前田山は、後楽園球場に観戦に行った。そこ
で、記者の注文に応じ、アメリカの監督と握手した。これが
新聞に掲載され、協会の怒りをかった。休場中の横綱が
野球観戦とは不謹慎でけしからんというのである。結局、
前田山は詰め腹を切る形で引退させらた。戦後初の4横
綱時代はこうして3場所で終了した。
新聞に掲載され、協会の怒りをかった。休場中の横綱が
野球観戦とは不謹慎でけしからんというのである。結局、
前田山は詰め腹を切る形で引退させらた。戦後初の4横
綱時代はこうして3場所で終了した。
横綱格下げ論はこの翌場所におきた。
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