大相撲

矛盾を抱えた東西団体競技始まる

2016年4月17日

明治42年夏場所、国技館の開設とともに変わったことが
ある。ひとつはこれまで千秋楽は、幕内力士は出場しな
かったが、出場するようになった。もうひとつが東西対抗
団体戦を始めたことだった。江戸財代から同じ方屋同士
は対戦しなかったが、東西でどちらが多く勝ったかを競っ
たのである。
常陸山
<常陸山のブロマイド>
 
勝ったほうが、次の場所の東となる。また勝ったほうに
優勝旗が渡された。優勝旗は優勝した方屋の関脇以下の
最高成績者が、土俵で受け取った。明治42年夏場所は、
横綱常陸山サイドの東方が優勝した。この制度は昭和6
年まで続いた。また、昭和15年から復活し、昭和22年の
夏場所まで続いた。まずは最初の団体戦の結果をみて
みよう。
東A
西A
賢明な読者はお気づきかもしれないが、団体戦は矛盾を
含んでいた。横綱の1勝、あるいは横綱を倒した1勝も幕尻
であげた1勝も同じ1勝なのである。また、休場者が出ると、
十両との対戦が組まれるのである。東の14枚目の新入幕
力士男嶋は、初日から5日目までは十両と対戦が組まれ
ているのだ。その下の神崎は10番中7番が十両力士との
対戦である。

番付は東は東だけで、西は西だけで編成される。一方が
差をつけて勝てば、勝ち越してもそれほど上げようがな
くなる。負けたほうはその逆になる。東は翌場所、西ノ海
が大関に昇進したにも関らず、朝嵐、碇潟、大ノ川は勝
ち越しても、据え置きの地位である。西の玉椿は、1勝
しかあげていないが、次の場所は筆頭なのである。
横綱梅ヶ谷藤太郎
<梅ヶ谷のブロマイド>
 
そもそも東西が拮抗しないと、一方的になって団体戦は
成り立たない。そのため、組み換えがある。梅ヶ谷の方
屋であった立川が翌場所常陸山の方屋に移籍している
のである。このような処置はけっこうおこなわれた。双葉
山と照國の対戦が少ないのは、照國と双葉山が同じ方
屋で顔が合う地位だったときが5場所、違う方屋だったこ
とが5場所のためである。なんかご都合主義が見え隠れ
する。

現代は、部屋別総当たり制である。当然のことながら好
取組は現代のほうが圧倒的に多い。もう団体戦が復活す
ることはないと思うが、長い相撲史にはこのような一面
があったことを頭の片隅においていただければ幸いで
ある。

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denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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