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矛盾を抱えた東西団体競技始まる

明治42年夏場所、国技館の開設とともに変わったことが
ある。ひとつはこれまで千秋楽は、幕内力士は出場しな
かったが、出場するようになった。もうひとつが東西対抗
団体戦を始めたことだった。江戸財代から同じ方屋同士
は対戦しなかったが、東西でどちらが多く勝ったかを競っ
たのである。
常陸山
<常陸山のブロマイド>
 
勝ったほうが、次の場所の東となる。また勝ったほうに
優勝旗が渡された。優勝旗は優勝した方屋の関脇以下の
最高成績者が、土俵で受け取った。明治42年夏場所は、
横綱常陸山サイドの東方が優勝した。この制度は昭和6
年まで続いた。また、昭和15年から復活し、昭和22年の
夏場所まで続いた。まずは最初の団体戦の結果をみて
みよう。
東A
西A
賢明な読者はお気づきかもしれないが、団体戦は矛盾を
含んでいた。横綱の1勝、あるいは横綱を倒した1勝も幕尻
であげた1勝も同じ1勝なのである。また、休場者が出ると、
十両との対戦が組まれるのである。東の14枚目の新入幕
力士男嶋は、初日から5日目までは十両と対戦が組まれ
ているのだ。その下の神崎は10番中7番が十両力士との
対戦である。
番付は東は東だけで、西は西だけで編成される。一方が
差をつけて勝てば、勝ち越してもそれほど上げようがな
くなる。負けたほうはその逆になる。東は翌場所、西ノ海
が大関に昇進したにも関らず、朝嵐、碇潟、大ノ川は勝
ち越しても、据え置きの地位である。西の玉椿は、1勝
しかあげていないが、次の場所は筆頭なのである。
横綱梅ヶ谷藤太郎
<梅ヶ谷のブロマイド>
 
そもそも東西が拮抗しないと、一方的になって団体戦は
成り立たない。そのため、組み換えがある。梅ヶ谷の方
屋であった立川が翌場所常陸山の方屋に移籍している
のである。このような処置はけっこうおこなわれた。双葉
山と照國の対戦が少ないのは、照國と双葉山が同じ方
屋で顔が合う地位だったときが5場所、違う方屋だったこ
とが5場所のためである。なんかご都合主義が見え隠れ
する。
現代は、部屋別総当たり制である。当然のことながら好
取組は現代のほうが圧倒的に多い。もう団体戦が復活す
ることはないと思うが、長い相撲史にはこのような一面
があったことを頭の片隅においていただければ幸いで
ある。

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よしなに
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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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