今、大相撲の興味の1つに優勝争いがある。この優勝は
もちろん個人優勝である。○○場所がどんな場所だったか。
そういう場合××が△△と優勝を争い、優勝した場所として
記憶されることがある。また、優勝争いは、数々のドラマを
みせ、ときには横綱誕生をともなった。
もちろん個人優勝である。○○場所がどんな場所だったか。
そういう場合××が△△と優勝を争い、優勝した場所として
記憶されることがある。また、優勝争いは、数々のドラマを
みせ、ときには横綱誕生をともなった。
しかし、大相撲の歴史において個人優勝の歴史は意外と
浅いのである。それは大正15年からである。よく、明治42
年の国技館開設以降で、第1号は高見山と扱っている
年の国技館開設以降で、第1号は高見山と扱っている
場合がある。だが、厳密にはこれは時事新報社という一
企業が国技館に優勝額を掲げたにすぎない。個人優勝を
制定するには、引き分け、預かり、対戦相手が休めば自
分も休み扱いになる不合理な制度を改正する必要があっ
た。
相撲史を真っ二つにすると、どこで分けるか。かつてこの
テーマを書いたとき、明治42年の国技館開設とした。天
候に左右されずに、興行が予定通り行われる。これは
テーマを書いたとき、明治42年の国技館開設とした。天
候に左右されずに、興行が予定通り行われる。これは
画期的なことだった。それ以前はいつ千秋楽になるか、
あるいは途中で中止になった場所さえあった。
ところが、国技館誕生とともにスタートしたのは、団体戦
であった。団体戦といっても、双方5人が対戦して3勝し
たほうが勝ちという、アマチュア相撲のような方式では
ない。東西対抗戦である。そもそも、大相撲は2つの勢
力の争いだった。江戸時代も同じ方屋同士の対戦は
なかった。相撲は格闘技であるなら、団体戦はなじまな
であった。団体戦といっても、双方5人が対戦して3勝し
たほうが勝ちという、アマチュア相撲のような方式では
ない。東西対抗戦である。そもそも、大相撲は2つの勢
力の争いだった。江戸時代も同じ方屋同士の対戦は
なかった。相撲は格闘技であるなら、団体戦はなじまな
い。というのは現代の発想である。
それでは、最初の団体戦、東西制はどのようにおこなわ
れたか。
(続く)、
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