大相撲

国技館誕生は団体戦の始まり

2016年4月16日

今、大相撲の興味の1つに優勝争いがある。この優勝は
もちろん個人優勝である。○○場所がどんな場所だったか。
そういう場合××が△△と優勝を争い、優勝した場所として
記憶されることがある。また、優勝争いは、数々のドラマを
みせ、ときには横綱誕生をともなった。

しかし、大相撲の歴史において個人優勝の歴史は意外と
浅いのである。それは大正15年からである。よく、明治42
年の国技館開設以降で、第1号は高見山と扱っている
場合がある。だが、厳密にはこれは時事新報社という一
企業が国技館に優勝額を掲げたにすぎない。個人優勝を
制定するには、引き分け、預かり、対戦相手が休めば自
分も休み扱いになる不合理な制度を改正する必要があっ
た。
両国国技館!
<<両国国技館記念絵葉書>
 
相撲史を真っ二つにすると、どこで分けるか。かつてこの
テーマを書いたとき、明治42年の国技館開設とした。天
候に左右されずに、興行が予定通り行われる。これは
画期的なことだった。それ以前はいつ千秋楽になるか、
あるいは途中で中止になった場所さえあった。

ところが、国技館誕生とともにスタートしたのは、団体戦
であった。団体戦といっても、双方5人が対戦して3勝し
たほうが勝ちという、アマチュア相撲のような方式では
ない。東西対抗戦である。そもそも、大相撲は2つの勢
力の争いだった。江戸時代も同じ方屋同士の対戦は
なかった。相撲は格闘技であるなら、団体戦はなじまな
い。というのは現代の発想である。

それでは、最初の団体戦、東西制はどのようにおこなわ
れたか。
(続く)、

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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