大相撲

半世紀を経過した部屋別総当たり制1

2016年2月13日

現在の取組編成は部屋別総当たり制であり、相撲ファン
はそれが当たり前のこととして受け入れている。部屋別
総当たり制が始まったのは、昭和40年の一月場所だから、
すでに半世紀を経過したことになる。始まったのは昭和
40年だが、戦後しばしば、部屋別総当たりは叫ばれて
きた。昭和28年、年4場所制になるのを機に、東富士・
を中心に力士会が声をあげた。しかし、このときは、
協会の反対で立ち消えとなった。
照国 
國のブロマイド>

昭和30年代にはいって、部屋独立を奨励する二所ノ関の

系統の力士がしだいに増えてきた。昭和35年五月場所の
番付を見ると、花籠部屋=横綱若乃花・若ノ海・若三杉・若
乃国・若秩父、佐渡ヶ嶽=大関琴ヶ濱、二所ノ関=大鵬・
玉響・海山・玉乃海と10人の幕内力士がいた。出羽海・春日
野は6人で栃錦はこの場所で引退していた。系統のつながり
はないが、小野川部屋が出羽海・春日野に加わっていた。
このとき小野川部屋の幕内力士は2人いた。取組編成の打
開をはからんと昭和35年七月場所中に、武蔵川(元出羽ノ
花)が部屋別総当たりを提案した。高砂(元前田山)、伊勢ヶ
濱(元照)ほか数人が賛成したが、反対が多く、時期尚早と
なった。
若乃花
<若乃花のブロマイド>
 
NHK解説者の玉の海(梅吉)は幕内力士が多い系統と
そうでない系統では取組に不公平が生じると考えていた。
また、ファンの要望、土俵の充実、相撲界の発展のため
にも早く部屋別総当たりを実現したほうがいいと、時津
風(元双葉山)理事長に進言していた。現在は伊勢ノ海
部屋と時津風部屋は一門だが、系統的つながりはなく、
柏戸(伊勢ノ海)と豊山(時津風)は対戦していた。時津
風は立浪から独立していたため、この2つの部屋の対
戦はなかった。
時津風
<時津風>
 
昭和39年8月理事会で、時津風(元双葉山)理事長から
提案というより雑談のなかで「もはや、人情路論におぼ
れているときではない。部屋別について全員よく考えて
おくように」と話した。そして時津風(元双葉山)は世論
を味方につけた。(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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